10年

written by lapin
0. ロビーにて(観客の場合)

大都劇場のロビーは、開場を待つ人々に埋め尽くされていた。喫煙コーナーでタバコ片手に舞台に備える男たち。華やかな談笑を繰り広げる女たち。その間を子供たちが駆け回り、老人たちは並んで腰を下ろしている。あらゆる年齢と立場の人々が、一同にその場に会していた。さらにそこに、当日券を入手できた幸運な人々が次々に加わる。
雑多な顔ぶれではあったが、誰もに共通しているのは、興奮と期待を胸に抱いていることだった。寡黙だが、タバコを持つ指先に視線を遣りつつ、胸の高まりを抑える男たち。前評判の素晴らしさを興奮気味に話し合う女たち。何やら尋常ではない雰囲気に子供たちははしゃぎ回り、老人たちは静かに胸を震わせている。異様な熱気が満ちていた。
紅天女の初日。奇跡の舞台を何とか観たいと願う人々が年々増え、上演は既に10回目を重ねるまでになっていた。
まもなく、幕が、上る。

1. ある男(社長の場合)

彼は他の男たちに混じって喫煙コーナーに立ち、舞台の前の最後の一服を楽しんでいた。彼はこれまでの紅天女をすべて観てきた。ほんの一握りの関係者しか観られなかった試演さえも。しかし、彼は決して紅天女に飽きることはなかった。
彼の人生、および彼の仕事の内容は、深く紅天女に関わるものだった。最初は憎しみから、次は愛から、そして今は自分に課せられた宿命として、彼は紅天女に関わり続けてきた。紅天女。奇跡の舞台。そして、夢の女。
虹の中で生きる彼女を見つめるひと時だけが、彼の空しい人生の中の真実だった。彼の夢を担い、憧れのすべてを体現している小さな女。
舞台を降りた後の阿古夜からの求愛を、彼は一度拒んでいた。彼には妻がいた。人生最大の過ちだった。しかし、紅天女の舞台を観るたびに、彼は赦される。彼女との束の間の恋に生きる。
また、この季節が巡ってきた。10年目の紅天女。
そして、今年は特別だ…。

2. ある女(女優の場合)

楽屋まで伝わってくるざわめきと異様な熱気に、彼女の体は心地よい緊張に震える。舞台に上るまでは、彼女はごく普通の女だった。当たり前の日常を送り、ささやかなコンプレックスに悩んだり、叶わない恋に泣いたりした。
彼女が愛した唯一の男は、既に結婚していた。愛を拒絶され、行き場を失った気持ちは、やがて舞台へと向かった。彼女と愛しい人を結び付ける最後の絆。それが紅天女だった。紅天女の舞台に立っている間だけは、その人への恋に生きることができる。そして、彼は必ず観てくれた。受け止めてくれた。言葉がなくても、通じ合う。
もう、10年。10年目の阿古夜はどんな阿古夜だろう。
10年経った自分は…?

3. 幕前

開場を知らせるブザーが鳴り響く。開け放たれた扉に殺到する人々。
急にがらんとなったロビーにひとり残され、彼はゆっくりと丁寧にタバコを揉み消す。傍らに置いてあった荷物を手に取る。ブリーフケースと、紫のバラの花束。
そして、彼は立ち上がり、歩き出した…
舞台の袖に立ち、彼女は目を瞑る。阿古夜になる一瞬前に、彼女を脳裏を過ぎる考え。あの人に、会おう。必ず。今日の舞台が終わったら。そして…。舞台が暗転する。
彼女は袖から一歩舞台へと踏み出した…

そして、物語が始まる。


8.11.2003



<FIN>






□lapinさんより□
最後の一行を杏子さまに捧げたくて、でっちあげた小噺です。何かの最後は、他の 何かの最初だという、あの言い古されたフレーズを、私なりに言ってみました。
続い ていくものの存在を信じて。





□杏子より□
オフ会の朝頂きました。あとで頂いた、lapinさんのあとがきを読んで、涙。 そんなふうに思ってくださって、ありがとう。恐縮すぎて、涙でます。
”ESCAPEには、なにか、『自分も書いてみたい』と思わせる麻薬がある”
ととある方に言われたとき、嬉しかったのと同時に、その理由はどこにあるんだろう、と結構真剣に考えてみたこともありました。
今、思うことは、菌は菌を呼ぶ、妄想は妄想を呼ぶ、そして”何かの最後は、他の何かの最初”というのは、まさにここから生まれた沢山の書き手さんのことだと思います。
これからも、皆さんには沢山、沢山、お話や絵を書き続けて欲しいです。
そして、おいで〜、おいで〜、と今度はみなさんが杏子を誘ってください。
lapinさん、ありがとうございました。lapinさん本日、ご実家に帰省とのこと。ネットのない健康的な生活、満喫してくださいませ。(笑)








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