天使が堕ちた夜 1
「速水真澄さん、速水真澄さん…」

『社長』でも『真澄さま』でも『速水さん』でもなく、フルネームで自分を呼ぶ声。それは全く聞き覚えのない声だった。
社長室のデスクの上以外の灯りが消された薄暗いオフィスの一点が一瞬明るくなったかと思うと、最初はぼんやりとした輪郭だったものが段々明確な形を捉え、真澄の視界に存在してくる。

(羽…?)

最初に目に入ったのは、大きな大きな白い羽。

(なんでこんな所に羽が…)

残業続きの無理がたたって、ついに幻覚に襲われたかと、訝しげに目を細めた瞬間、羽の主が声を出す。

「そんなに眠いんなら、家に帰って眠ればいいのに…」

驚いて真澄が顔を上げると、羽の主のは真澄の目の前のデスクの上に腰掛け、優雅に足を組みかえる。デスクの上でうつらううつらしていたようだが、そんな眠気も吹っ飛ぶ衝撃に真澄は一瞬のけぞる。

異常に長い足。おまけに真冬だというのにナマ足だ。それにこの女の露出度といったらどうだろう?裸も同然ではないか。スタイルの良さは人並み外れている。

(うちのモデルか?)

その美しい国籍不明な顔にようやく目の焦点を合わせながら、真澄は所属のトップモデルの顔を順番に思い出す。

「き、君…、こんな時間に何の用だ」

時計を見れば、すでに深夜0時を回っている。所属のタレントが社長を訪問する時間としては常識外れな時間帯だ。

(おまけに、この格好はどう説明したらいいのだ?)

真澄は思ったままに口にする。

「というより、誰だ、君は…。大体のその格好は…」

女はフフフと、楽しそうに笑うと、悪戯っぽい声で答える。

「え〜っと、ワタシは見ての通り。分かりやすい格好で来たんだから、わかるでしょ?」

「は?」

国籍不明の女は日本語を喋ってはいるが、意味は全くわからない。

「人間って、だいたいこういう格好してると思ってるんでしょ、天使とか言うと」

「…天使…?」

思い当たって真澄はもう一度、その女の姿を見やる。大きな白い羽…。

(そうか、天使のつもりか…)

「ああ、仮装大会は結構だがな、君、もう少し常識的な時間にやってもらえると、助かるんだがな。
名前は?」

睡魔からだんだんと解放され、思考能力や判断力を取り戻してきた真澄は、咎めるような口調で訊ねる。

「あ、信じてな〜い。
ま、別にいいんですけど、信じてくれても、くれなくても…。せっかく、天使らしい格好で来てあげたのに…。次からはもう面倒くさいからフツーの格好で来ますよ。
えっとね、あなたに大事なお知らせ」

女は真澄の方にぐっと近寄ると、顔を覗き込むようにして言う。

「びっくりしないでね。って言っても、びっくりするなって言うほうが、無理だと思うけれど、あのね、あなたの命、あと一週間なの」

真澄はこの深夜の珍客の唐突な発言に、もう笑うしかない。

「あははははははっ!
そいつは困ったな!!で、死因はなんだい?病気ってことは、無さそうだな、今の所俺は健康だ」

真澄に一笑され、女は気分を害したのか、プイと横をむく。

「あなた、とっても失礼な人ね。人がせっかくこうして、来てあげたっていうのに…。笑い声も下品だしっ。
それから死因は教えちゃいけないの。っていうか、普通は死ぬ事だって教えないけれど、あなたの場合、あまりと言えば死因も悲惨だし、今の状況も悲惨だから、特別に来てあげたのよ。ちょっとは感謝してよ」

『悲惨』

その言葉に真澄は反応して、ぴくりと眉を上げる。

「俺の状況のどこが、悲惨だって言うんだ?」

「そんなの見ればわかるわよ。いつまでも勝手に思いつめて、悶々としてばっかみたい。ま、でも死ねば好きでもない人と結婚しなくて済んで、それだけはラッキーかもね」

その言葉に真澄は少し、カチンとなる。

「君…、どこの誰だか知らないが社長に向かって、その言い草はなんだ?」

「え?だって、あっちじゃ社長もヒラも関係ないわよ。人間はみんな同じだもの」

ケロっとした顔で女は答える。どうやら、完全に最後までなりきる気らしい。まともに相手にしていては埒があかない。真澄はタバコを一本抜き取り、火をつけると、悪戯心も手伝って遊び相手になる事にした。

「あ、あっちは禁煙なんで、覚悟しといたほうがいいですよ。全界禁煙!ですからね。まぁ、みんなあっちに行くと、タバコ吸うのも忘れちゃうみたいだから、そんなに問題はないみたいだけど…」

ぺらぺらと喋り続ける女に真澄は、苦笑を堪えながら訊ねる。

「君はなかなかの演技力というか、ユーモアのセンスもあるみたいだが、志望はなんだ?モデルか?女優か?」

女は一瞬、訝しげな表情を浮かべたかと思うと、鼻のあたりに皺を寄せ、明らかな不快感を表す。

「ちょっとぉ、信じなくてもいいって言ったけど、ホントに信じてないのね。なんか、虚しいかも…。ワタシだって暇じゃないし、そろそろ行かなきゃ行けないんですけど」

「ああ、デートかい?」

完全にからかわれてるとわかった女は、ムッとして答える。

「あなたには強烈な思い人が居るみたいだから、こんな心配しなくてもいいと思うけど、よく迎えに来てあげた人に熱出される事あるんですよねぇ。でも、ワタシ、人間じゃないんで、当然女でもないワケで…」

そう言って、女はいきなり、腰周りの布切れをはだけさせる。
真澄は突然視界に突きつけられた、異常な光景に絶句する。女には決してついていないものの存在を見て、あまりのその不気味さに、吐き気さえ催す。

「両性具有っていうの?ま、天使に性別なんてないしね。当然、人間に恋するなんて事もないんで、ご心配なく」

そう言って、デスクから飛び降りると、窓辺へと近づく。眼下に広がる夜景に一瞬うっとりと目を細めたかと思うと、小さな声で呟いた。

「キレイね…。これは、あっちにもないかも…」

背中の羽が、ゆっくりと動いた。
しばらく夜景を眺めたあと、振り向きざまに女は声を上げる。

「さてと、時間切れ。そろそろ、帰らなくちゃ。用件だけ最後に言うわよ」

真澄はもう何も言う事はない、と言わんばかりに両手をあげて、降参のポーズをとる。

「あなたの命、あと一週間だけど、その代りに最後に一つだけ願いを叶えてあげる。なんでもいいわよ。どうぞ、お好きなように…」

そう言って、真剣な眼差しで真澄を見つめる。

真澄は思う。
おそらく自分は夢を見ているのだろう、と。きっともうすぐ、社長室のデスクの上で、ハッと目が覚めるのだろう。じゃなければ、こんな唐突ではちゃめちゃな状況は説明がつかない。
そこまで思い当たると、真澄は覚悟を決めたように呟く。

「本当になんでもいいんだな…」

「どうぞ、どうぞ」

女はそう答えたあとで、思い立ったように真澄の元に近づいてくる。

「あ、ごめん、言う時は一応、ワタシの耳元でよろしく。それから、言い終わったらワタシの羽を一本抜いてね。痛いから一気に抜いてくれると助かる」

真澄は不思議そうな表情を浮かべると、夢とは言えすっかり乗せられてしまってる自分に苦笑しながら、尋ねる。

「なんで、羽を抜くんだ?君の自慢の羽じゃないか」

「だって、あなた、絶対ワタシが居なくなったら、『夢だったんだ』で済ませようとしてるでしょ?だから、まぁ、物的証拠ってヤツね」

真澄は絶句する。ここまでくれば、もうどうにでもなれだ。自棄になって、女の耳元で、自らの叶わぬ願いを口走ると、一気にその羽を一本抜いた。

「…っつ!」

女は一瞬痛そうに顔を歪めたかと思うと、素早くその羽を震わせる。その仕草があまりにどこか痛みをともなう感覚を真澄に与えるので、思わず声を上げそうになる。

(大丈夫か?)

あわててその問いを飲み込み、俯く女の顔を眺めると、女はにっこりと笑う。

「ありがとう」

「何がだ?」

「今、『大丈夫か?』って心配してくれたでしょ?」

真澄は一瞬、呆然とする。

(偶然かもしれない…)

そう否定する一方で、信じそうになる自分も居る。

「君は人の心が読めるのか?」

女は一瞬不思議そうな顔をしたあと、満足気な笑みを浮かべる。

「当たり前じゃない。だって、天使だもの…。
それじゃ、あと一週間だから。まぁ、悔いのないようにね」

そう言って、真澄のデスクの時計をくるりと自分の方に向けると、時間を読み上げる。

「来週の金曜、0時30分。嫌でも迎えに来るわよ。
じゃーね」

そう言ったかと思うと、一瞬にして何か眩いものに目を潰され真澄は視界を遮られる。

気が付くと、デスクの上にうつ伏せになっている自分。

(妙な夢を見たもんだ…)

そろそろ残業にも限界が来たかと、苦笑しながら体を起こした瞬間、真澄の体は凍りつく。手のひらには白い羽が一本。そして、自分に背中を向けたデスクの置時計。
震える手でそれをこちらにむかせると、デジタル時計はちょうど0時31分になったところだった。

(これは…)

説明のつかないこの状況に飲み込まれそうになる。
次の瞬間、錯乱する思考と深夜の不気味な静けさを打ち破る、電子音。心臓が止まりそうなほどの衝撃が真澄に走る。

脱いだ上着の内ポケットから、慌てて自らの携帯を探し出し、非通知のその呼び出し音を5回聞いたあと、躊躇いがちに真澄は出る。

「…もしもし…?」

「…速水さん…?」

それは、世界で一番、その声を聞いたら自分がうろたえるであろう人間のものだった。

「あ…、あの、北島マヤです…」




1.31.2003








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