| 天使の休日 1
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「速水真澄さん、速水真澄さん」
社長でも、真澄さまでも、速水さーん、でもなく、フルネームで自分を呼ぶ声。 ……聞き覚えがある? いつものように普通の人間であれば許容範囲をはるかに超えた量の残業をこなし、社長室のデスクの上でついに意識が飛びかけていた 瞬間、その声は真澄の聴覚の最後の網にかかる。つっぷしたデスクからゆっくりと上体を起こし、自分以外の人間の気配を感じた真澄は、 ようやくピントの定まった視界に飛び込んできた、デスクの端に無造作に腰掛けたその存在に絶句する。 「なっ……!!君っ!!」 「だから、眠いんだったら、家帰って寝ればいいのに」 左手の人差し指でぽってりとした自らの下唇を弄びながら、女はからかうような顔で言う。 「おひさしぶりっこ♪」 そう言って女は、デスクから無造作に飛び降りると、すらりと異常に伸びた足でポーズを取りながら真澄の前に立ちはだかる。 絶句したまま、つま先から頭のてっぺんまで、何度も視線を行ったり来たりさせる真澄に、女は眉間に小さな皺を一つ寄せ、脹れた声を あげる。 「ちょっとぉ、『絶対忘れない』とか調子いいこと、言っておいて、一年もしないうちに、もう脳内消去ですかぁ?」 そう言って、その国籍不明な顔をついと真澄に近づける。 女は、一年前にある日突然、真澄の前に堕ちてきた天使だった……。 ![]() 「それで、お仕置き期間はどれくらいなんだ?」 「無期限。『立派な善行を働くまで』ってことだから、アタシがなんもしなければ、いつまでもここに居させられるし、 今すぐにでも『立派な善行』を働ければ、3秒後にでも帰っていいの。 あ、ティッシュ取って」 天使は指先に付いたケチャップをピチャピチャと舐めながら、真澄に言う。話の腰を折られたように、一瞬むっとしながら、真澄は 無造作にティッシュボックスを箱ごと渡すと、自らの手のひらのハンバーガーには手をつけずに、問いを重ねる。 「善行って例えばなんだ?人助けか?」 「それは、上しだい。アタシが善行だと思ってやっても、上が善行じゃないって言えばそれまでだし、ヘタしたらオキテ破りで また厳重処分勧告受けるかもしれないし。1年前みたいに……」 そう言って天使は、上目使いに真澄をチラリと見たあと、ポテトをかじった。真澄の心臓がドキリと波打つ。 「ポテトおいしー。一度食べてみたかったんだよねぇ」 微妙に気まずい沈黙を誤魔化すように、天使は間の外れた声をあげた。 真澄は大きくため息をつく。 天使の言うことには、どうやら一年前に自分の命を救った天使のあの行いは、あちら(といわれてもどちらなのかも分からないが) の世界ではやはり掟破りということで、厳重処分を受けたらしい。一年間の無賃労働(便所掃除をやらされたとか)のあと、 天使業復活の最後の関門として人間界に人間として送り込まれたらしい。 目的は、天使のいうところの『善行を働くため』だそうだ。 「食べないの?」 天使の目が、真澄の手元を見つめる。 「夜中に、ハンバーガー2個も3個も食べれるほうが普通じゃないだろうが」 「4個いけますけど、何か?」 そう言って、形のよい大きな唇を尖らせるようにして笑うので、真澄は呆れた顔で、手元の口のつけられなかったハンバーガーを 天使に渡す。 「マヤと張れるほどの、食いっぷりだ」 どうしても食べたいという、天使のリクエストで、ついさっきファーストフードの店から、テイクアウトしてきたハンバーガーセット。 天使時代は物を食べたことも(必要ないらしい)、飲んだこともないとのことで、いつもいつも目にしていた、このジャンクフード に多大なる憧れを抱いていた、と熱く語られ、真澄は大都芸能社長ともあろうものが、深夜にファーストフードショップまで走らされたのだ。 「ねぇねぇ、バーベキューソースのほかに、何ソースがあるの?今度はそっち試してみる」 暢気な声に、真澄の神経の一本目がブチリと切れる。 「君っ!!少しは危機感ってものがないのか?大変なんだろう?身の振り方とか心配したらどうなんだ、早く帰りたかったら一刻も早く その善行とやらを……」 真澄のその荒立った声を、ポテトをつまんだ手とは反対の手をヒラヒラさせながら、天使は制する。 「あー、はいはい、もちついて、落ち着いて。 だから、あなたのとこ来たんじゃない。だって、あたし、こっちの知り合いあなたしか居ないわけだし、そもそもこんなことに なったのも、あなたにも原因あるわけだしぃー」 かじって短くなったポテトの残りを、口に放り込むと、天使はニッと笑う。 「というわけで、最初のお願い」 「なんだ?」 完全に天使のペースに巻き込まれてるのを自覚しながらも、確かに自分に責任があることもよく分かっているため、無碍にも出来ず、 真澄は耳を傾ける。助けてやれるのなら、助けてやりたい。正直な気持ちだ。 「服、買って♪」 「は????!!!」 今晩何度目の絶句だろうか? 「だって、こっちに堕ちてくるとき、衣装全部取られちゃったんだもん。羽もないし、魔法も使えないし、お金もないし。 万引きなんてしたら今度こそ、確実に地獄堕ちだし。じゃないと、アタシ、いつまでもこの黒下着いっちょで、動き回るわよ」 そう言って、いくら初夏が来たとはいえ、街では誰もそんな格好しないだろうというような黒い下着姿に、 申し訳程度に羽織った黒のシースルーのブラウスの袖を ヒラヒラさせるのだった。 ![]() 時計の針は夜10時を回ったところだ。普通の店ならとっくに閉店時間を過ぎている。 「じゃぁ、明日」 とでも言ってしまえば、この天使のことである、平気で裸同然のこの格好で表を歩きかねない。そして翌日もその格好のまま、オフィスに 潜入し 「シャチョ〜♪」 などと大声を上げて追いかけてくるに決まってる。マズイ。いただけない。それだけは、避けなければ。 「君……」 そこまで言って真澄は、ふと言葉に詰まる。そう言えば大事なことを聞くのを忘れていた。 「名前は?」 不思議そうな顔をしてこちらを見つめる天使に、真澄は促すように言葉を付け加える。 「君の名前だ。まさか天使一号ってこともないだろうが」 ああ、と合点がいったような顔で天使は笑う。 「ないわよ、そんなもの。だって呼ばれないし。上に”おい、ちょっと来い”って言われたら、すぐに自分だって分かるし。 わざわざ名前つけて呼び合うなんて、こっち(人間界)だけでしょ」 担がれているのか、本気なのか、いまだにこの天使と話すとき、真澄は現実的な思考を覆される思いがする。 「わかった、わかった。でも、君、しばらくこっちで生きていくとすれば、名前ぐらい必要だろ、 難しく考えなくていい、なんて呼ばれたい?」 天使はその大きな澄んだ瞳をぐるりと一回転させる。まるで生まれて初めて解く問題を前に、思案する子供のように。 「天使……、天使……、天子…、てんこはどうだ?」 「やめて、センスなさすぎ。そんな名前で呼ばれても、返事しないわよ」 天使は鼻の頭に小さな皺を寄せて、すぐさま噛み付くように答える。 「決めた、アンジェにして」 サラリとそう満足気に言う。 「Angelだからアンジェか?」 「そうよ、何よ、悪い?」 「君こそベタじゃないか」 「センスの問題を言ってるのよ。いやよ、てんこなんて」 真澄は油を吸ってぐにゃりとなってしまったポテトを口に運び、その不味さに顔をしかめる。 「杏樹はどうだ?日本の名前だぞ。カタカナよりいい響きだ」 真澄としても別に、アンジェでもブラマンジェでも良かったのだが、『センスなさすぎ』まで罵倒され、、負け惜しみからそんなことを提案 する。天使は少しだけ思案するような顔をする。 「あんじゅ……。ふぅん、どんな字書くの?」 「あんずの木だ」 「おいしそうね、いいわ。杏樹に決まり」 『おいしそう』と満足気に頷くその様子に、真澄は苦笑しながら、マヤを思い出す。 そして次の瞬間、キリリと胸が痛む。 仕事が忙しいことを盾に今日も会えなかった。というよりも会わなかった。電話もしなかった。 二人は喧嘩中なのである。 喧嘩の理由はもう忘れた。 いや、忘れてないわけではない。正確に言えば、忘れたい、の間違いなのだが……。 油のついた指先を無意識に何度も、ティッシュで拭いながら、真澄はあまり見たくもない心の片隅の物置を覗き込む。 自分が嫉妬深いことは知っていた。 マヤがまだ自分のものでもなかった時から、その独占欲とお門違いな嫉妬の塊は遺憾なく発揮されていたわけで、自覚が なかったわけではない。けれども、これほどお互いが唯一無二の存在になってまで、こんなことで見苦しいほどの思いに苛まれるとは 真澄は思っていなかったのだ。 一年前に、天使がもたらした奇跡のおかげで、真澄はマヤと思いを通じ合わせることができ、そして予想していなかった人生のエンディングと 新たなる人生の始まりを経験した。その瞬間から、真澄がこの世に生をなすことの意味は、ただ一つマヤのためだけであり、 またそうできるのもマヤから与えられた彼女の半分の命だと、心に刻み込んで生きている。 愛、そんな言葉だけでは縛りきれないほどのものが、自分とマヤの間にはある。一つの命、人生、魂を共有するということへの 漠然とした理解が真澄にはあった。 マヤの気持ちを疑っているわけではない、ましてやマヤが何か、不審な行動を取ったわけでもない。 問題はもっと別の、そうぜんぜん別の場所、いや、根本的にそんなことがあってはならない場所にある。 真澄は、女優北島マヤの行動に嫉妬しているのだ。 最近のマヤは実年齢や女優としてのキャリアに正比例して、それなりに大人の役を貰うようになってきた。恋愛もののドラマや舞台で、 キスシーンはかかせない。元来テレ屋で、いまだに自分とキスなどする時は、瞳を潤ませ、吐息を震わせ、肩を震わせることさえ あるというのに、モニターの向こうのマヤのあまりに堂々としたその様子と、演技とは思えないほどのその情熱的な瞳やら 愛撫に、真澄はTVを投げ飛ばしたくなるほどの衝動に駆られる。 ――演技だからこそ、堂々としてるのではないか。演技だからこそ、演技と感じさせないのではないか。 女優魂にますます磨きがかかってきたマヤの様子をもっとも近くで理解してやる立場の人間として、何度もそう言い聞かせてみるのだが、 どれほど頭で理解したところで、心は勝手に傷付き、そしてドロドロとした赤黒いマグマは心底で渦を巻く。 喧嘩の原因も、マヤが出演中のドラマの濃厚なキスシーンにあった。 見てしまったそのシーンが仕事の間も何度も、脳内スクリーンで上映され、次の日の電話で、そんなことは言ってはいけない、と どれだけ厳重に鍵をかけておいても、マヤの不用意な一言で、それはこぼれ落ちてしまう。 「田辺さんねぇ、速水さんと同い年なんだって、それで来週ドラマの撮影中に、お誕生日なの。お世話になってるから、 何かプレゼントしたいんだけど、あたし大人の男の人の欲しいものなんかわかんないなぁ。速水さん、何がいいと思う?」 ドクリ。 マグマの温度がまた1度上がる。 マヤになんの邪心も、また駆け引きなどという思惑も1mmもないことは、分かりすぎるほど分かっていた。けれども、その純真さと、 無防備さが、こういう時ほど残酷に身を切り刻む。自分が狂うほどに愛する人物の唇を毎週のように奪っている男の誕生日プレゼントを 選べという、その無防備さが……。 「そんなことは本人に聞けばいいじゃないか。キスまでする仲なんだから。 それとも、誕生日ぐらい演技じゃないキスを贈ってやるのもいいかもしれないな」 我ながら最悪だと思う。 そんなことを口走れば、さらにあとで惨めに苦しくなるだけだと分かっていて、それでもそれらは、平然と鉄の声で自らの喉下を通過する。 マヤが電話の向こうで息を止めたのが分かる。数秒後、荒い息使いが聞こえだす。 怒鳴り声が聞こえてくるまで、あと5秒。 正確にきっちり5秒数えると、雷は真澄を直撃する。 「速水さんのバカっ!何、オジサンみたいなこと言ってるの? どうしてそういうこと言うの?そういうこと言って楽しい?あたし、ぜんぜん楽しくないよっ!」 自分だって楽しいわけがない。どうしてこんなことを言うのかと言われれば、『それは君を死ぬほど愛してるからだ』とせめて、すぐにでも それだけ言い返せばいいものを、妙なプライドが邪魔に体を縛るように残り、口先はまるで違うことを生産する。 「また君はそうやって、すぐ怒る。いいかげん、大人になったらどうだ。君があんまり大人の役を立派にこなすから、てっきり 大人になっていたと思いきや、チビちゃんはいつまでたってもチビちゃんだな」 からかってそう言って、全てを煙にまくつもりだったのかもしれない。けれども、冷静な判断力を失い始めた真澄は自分の失言にさえ 気づかない。 「……お子様で悪かったですね。本当に、悪かったですね。 でも、言っていいことと悪いことの境界線がぐちゃぐちゃになるのが、”大人になる”ってことだったら、あたし、大人になんて なりたくないし、なれないよ。 速水さん、ごめん。あたし、やっぱり速水さんと結婚できないかもしれない」 売り言葉に買い言葉とは言え、マヤに余計な一言を吐かせたことを、真澄は乗り過ごした電車の扉を叩くような気持ちで自身を 叩きのめしたくなる。 大人気ないのはいったいどっちだと言うのだ。 こんな問題は早く、乗り越えねばならない。 自分は所属の人気女優と間もなく結婚する鬼社長であるのだから。 分かっていて女優などに惚れた自分に課せられた、当然の報いであるのだから。 そして、よき夫、よきパートナーとして、生涯マヤの側に居るのであれば、こんなことで蹴躓いているようでは、自分にもそして そのたびに当り散らされるマヤにも何もいいことなどない、と分かりきっているのだから……。 思考がどこか遠くに飛ばされてしまったかのように、今側にいる自分の存在も忘れ、心を浮遊させる真澄のそんな様子を、天使は 冷めてしまったポテトをかじりながら、フムフムと頷きつつ見つめる。 「思った以上に重症ね……」 ポツリとこぼれたその言葉は、心ここにあらずの真澄の耳には届かない。 「それでは、そろそろ、『善行』を働かせて頂くとしますか」 さらに小さなその声は、やはり真澄の聴覚の網を通り抜けて、深夜の社長室で小さな宣誓の鐘を鳴らす。 二人の結婚式は、一週間後に迫っていた。 6.12.2003 ![]() |
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