| 月が見えない夜は 1
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| written by lapin
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月が見えない夜は
月明かりが部屋の奥まで射し込んでいる。
まるで、海底にいるようだ。すべてが青に染まっている。髪を一筋掴んで、目の前にかざしてみる。髪も指先も青い。目を上げると、怖いほど満ちた月が中空に浮かんでいる。月と向き合っていると、吸い込まれていくような気がする。心が体を離れて、どこかへ彷徨い出て行きそうだ。 思わず自分の体をぎゅっと抱き締めた。 あの人は、来ない。 カタン。 どこか遠くで小さな物音が静寂を破る。 次の瞬間、乾いた爆発音が深夜の住宅街に響いた。 ![]() 白い閃光が目を射る。熱風が一瞬で体を焼き尽くし、地面に叩きつけられる。 熱い。水が欲しい。ここはどこだ…遠くで誰かが呼んでいる。誰だ?俺を呼ぶのは? ゆっくりと意識の海面に浮かび上がっていく…電話が鳴っていた。ばっと寝返りを打つと、受話器を掴んだ。 「おう、やっと起きたか。俺だ。樋口」 時々仕事を斡旋してもらっている探偵事務所の社長、樋口仁だった。 「…ああ。何だ?」 震える指でタバコを咥えながら、窓の外に目を遣った。砂漠も閃光もどこにもなかった。いい天気だった。時計は午前8時を指している。健全な一日の健全な時間帯。 「仕事だよ。10時に事務所に来てくれ」 思わずため息が漏れる。ある大物の政治家がクライアントの仕事を終えたばかりだった。こんな時間に叩き起こされたところから考えて、急ぎの仕事に間違いない。面倒だと思った。 「他の奴を当たってくれないか。俺は…」 「頼むよ、カイル。おまえしかいないんだ。じゃ、待ってるからな」 一方的に電話が切れた。 ![]() 2時間後に、西新宿の樋口探偵事務所に着くと、樋口は待ち構えていたようにデスクから立ち上がった。 「よう、よく来てくれたな。悪いな、寝てたところを起こしちまって」 大して悪くもなさそうに言うと、俺に椅子を勧め、自分は回転椅子に身を沈めてデスクの上に足を上げる。 樋口は30代前半にして、この業界ではちょっと名の知られた人物だ。探偵事務所を経営し、かなりの成功を収めている。それは、彼が無造作に身に着けているスーツの素材がいかにも良いものであることからも容易にわかる。たぶんアルマーニだろう。長身で細身の樋口によく似合っている。長めの髪を後ろでひとつにまとめ、薄い色のサングラスをかけている。なかなかおしゃれだ。 「さてと。ある人物の警護を依頼された。すぐにでも始めて欲しいそうだ」 樋口が大きな茶封筒を投げて寄越す。「大都芸能・機密事項」のスタンプが大きく押されている。中から分厚いコピーの束を取り出し、パラパラとめくる。「北島マヤ・プロフィール」、「『月が見えない夜は』スケジュール」などの文字が目に飛び込んでくる。 「というわけだ。北島マヤ、知ってるだろ?」 知っている、といえば知っている。確か、演劇界の幻の名作と言われる芝居のヒロインを演じて、去年か一昨年あたりに騒がれた女優だ。芸能関係に疎くても、それくらいは知っている。顔を思い出そうとしたが、だめだった。一度見たら忘れられなくなるような美女ではないことだけは確かだった。 「おらよ」 樋口が雑誌を何冊か放って寄越す。一冊は演劇関係の専門誌だった。紅色の着物を纏って、梅の枝を手に持ち、身を翻している若い女が表紙だ。長い髪が宙に広がり、袖が弧を描きながら舞っている。一瞬の動きを捉えた写真だ。心持顔を上に向け、女はどこかを見ている。その視線の先には何も写っていないが、この女にはきっと見えているのだろう。不思議な女だった。どこがどうとは言えないが、普通の人間とは違う雰囲気を漂わせている。女が何を見ているのか気になった。 女性誌と週刊誌の方には北島マヤの素顔の写真が載っていた。拍子抜けするほど平凡な女だ。それに23という話だが、どう見ても十代にしか見えない。 「驚いたか。北島マヤはな、憑依系の女優と言われている」 樋口が考え深げに言う。 「素顔は至って平凡で地味だが、役柄を演じるときにはがらっと変わってしまう。誰にも演じられないと言われていた幻の名作、紅天女を蘇らせた天才女優様だ。そして、一躍有名人になった彼女を待っていたのは、お決まりのパターンだな、ストーカーというわけだ」 樋口は俺を見ると、肩をすくめてみせた。俺は頷いた。 「北島マヤのボディーガードをやればいいんだな」 「話が早くて助かるな。今夜にでも彼女のマンションに移ってくれ。手配は済んでいる。あ、その前におまえに会いたいと言っている人物がいる」 「俺に…?北島マヤのことでか?」 樋口がにやりと笑った。 「そうだよ。実はそのことでな、おまえにもうひとつ頼みがあるんだ」 樋口はおもむろに別の茶封筒を取り出すと、放って寄越した。他所の興信所から流してもらったもののようだった。大都芸能に関する詳細なデータが入っている。 『大都芸能取締役社長・速水真澄』。 「速水…真澄」 「ああ、大都芸能の社長だ。じきに、大都グループの総帥になるがな。鷹宮家のお姫様と結婚して、順風万帆のエリート街道まっしぐらだ」 樋口が早口で言う。俺が目を上げると、樋口はちょっと口をつぐんだ。 「速水がおまえに会いたがっている。今日の2時に大都芸能に行ってくれ」 「速水が俺に?」 女優のボディーガードは初めてではない。しかし、社長直々に頼まれるのは初めてだ。 「そこだよ。ここだけの話だがな。速水には愛人がいるんじゃないかという話がある。奴は仕事の鬼と呼ばれて、34の若さで実業界の中枢に踊り出ようとしている切れ者だ。スキャンダルは非常に困るわけだ」 「まさか…その愛人って」 俺は虚空を見つめている女の写真をそっと押さえた。 「さあな。それをこれから調べようというわけさ」 樋口の目が光る。俺は気が塞ぐのを感じた。大都芸能に関する資料は他所の事務所のものだった。何らかの取引があったのかもしれない。たとえば、大都芸能に関する情報と速水真澄の私生活に関する情報を交換するとか。こういう世界に生きている以上、汚いことには一切関わらないというわけにはいかないことは百も承知だ。 でも、俺自身は、常に一線を画すようにしてきたつもりだった。 「北島マヤのボディーガードは引き受ける。だが…」 「わかってるよ。無理にとは言わない。おまえの本来の任務に支障がない範囲内で、速水に関して何かいい情報があったら流してほしいんだ」 「ああ。だが、クライアントの利益が最優先だ。それだけは覚えておいてくれ」 樋口は腕を広げると、大げさに肩をすくめてみせた。 ![]() 事務所を出ると、まだ昼前だった。2時の約束まで何もない。目に付いた本屋にふらりと入ると、雑誌コーナーに行く。本日発売の経済紙を手に取り、巻頭の特集を開く。 速水真澄が写っていた。34とは思えない、倣岸で不敵な笑みを浮かべている端正な男。芸能社を経営するよりは所属していた方が自然なほどの華やかな容姿だ。週刊誌には、最近来日した大物アーティストの来日記念パーティーに妻とふたりで出席している写真が載っている。速水の妻は、いかにも深窓の令嬢然とした佇まいの美しい女だった。しかも鷹通グループの会長の孫娘だ。金。地位。権力。美貌。美しい妻。速水は何でも手にしている。 雑踏の中を歩きながら、樋口から聞いた話を思い返した。芸能社の社長と女優の不倫。よくある話だ。しかし、速水と北島マヤはどうも結び付かない。すべてを手にしている速水のような男が、なぜ10歳以上年下の子供のような女優と不倫なんかするだろう。もっと、後腐れのない、不倫にふさわしい相手はいくらでもいるはずだ。 やはりガセネタではないのか。 受付で名乗ると、受付嬢は一瞬動きを止めたが、表情を変えることなく「承っております」と答えた。 エレベーターに乗り込み、最上階へと向かう。鏡張りの箱に、浅黒い肌をした、異様に眼光の鋭い男が映っている。俺だった。自分に姿があるということを強く意識する。 俺は自分をひとつの機能だと考えている。ある限定された用途のための、よく鍛えられた機能だと。そして、機能として扱われるとき、俺は自分の外見や血や抱えているものから一時自由になれる。 サングラスをかけた有能そうな女性秘書が社長室に案内してくれる。 「わざわざお越しいただいて、申し訳ない。速水です」 背の高い男が落ち着いた動作でデスクから立ち上がり、大股でこちらに歩み寄った。週刊誌と寸分違わない、彫刻のような容貌、人の上に立つことに慣れているとすぐにわかる余裕に満ちた物腰。 速水真澄だった。 「霧島です」 速水に勧められるままにソファに座る。 「二日前の深夜です」 速水は前置きも口上も時間の無駄とばかり、すぐさま本題に入る。 「何者かが北島マヤの自宅マンションのポストに爆発物を仕掛けた。いくらセキュリティが厳重とはいっても、所詮はマンションです。エントランスをくぐるのはそう難しくはない。誰にでも可能な犯行です。北島の住まいはマスコミ関係者の間では秘密でも何でもありませんしね」 苦笑を浮かべる。 「ただ、気になるのは、爆発物を仕掛けた人物には北島に危害を加えるつもりはなかったということです」 「それは…?」 「ええ、ポストに爆発物を仕掛けるなら、開いた瞬間に爆発するように細工するのが普通でしょう?」 速水はタバコに火を付けながら俺を一瞬見た。女なら一発で参ってしまうだろうと思わせる、匂い立つような眼差しだった。差し出されたタバコに手を伸ばしながら、俺は煙の向こうの速水を見つめた。 「つまり、爆発させること自体が目的だったというわけですね。危害を加えることではなく、むしろ自分の存在を誇示するため…」 速水が薄く微笑んだ。 「そのとおりです。社に宛てて、犯人からと思われるメッセージも届いています」 速水から薄いバインダーを渡される。何の変哲もないB5サイズの白いコピー用紙に、新聞から切り取られた活字がいびつに貼り付けられている。 『キタジママヤサマ アナタヘノササヤカナオクリモノデス。 ヨロコンデイタダケマシタカ。 イツモアナタヲミテイマス。 アナタノファンヨリ』 「いまのところは、爆発物とその手紙だけです。もっとも、事件の翌朝、つまり昨日の朝には北島はマンションを出ている。ですが、相手が本気なら時間の問題です」 俺は頷いた。 「いくつかお聞きしてもよろしいですか?」 どうぞ、と答えると速水は真剣な眼差しを俺に向けた。 「まず、現段階では単なるいたずらとも考えられるのに、なぜ様子を見ようとお考えにならなかったのでしょう?」 速水はふうと息を吐くと、ソファの背に身を持たせかけた。葛藤しているようだった。やがて、諦めたように速水は口を開いた。 「現に爆発があった以上、誰も怪我をしなかったとはいえ、十分にいたずらの域を出ていると答えることもできるでしょうね。私がそう答えた瞬間に、ではなぜ警察に行かないのかとあなたはおっしゃるでしょうが」 その通りだった。 「あなたにお願いする以上、正直に申し上げましょう」 速水は軽く身を乗り出すと、俺をひたと見据えた。瞳が冴え冴えと光っている。 「北島へのストーカーというのは目くらましに過ぎない可能性があるということです。本当の目的は…私です。ご存知でしょうが、私は敵が多い。看板女優に対する脅迫は社長である私に対する脅迫と同義と言っても過言ではない。それに…私個人を苦しめるのが相手の目的だとしたら、これほど効果的な方法はありません」 速水は微苦笑を浮かべると、長い指でゆっくりとタバコを揉み消した。あの不敵な笑みとは全く違う、柔らかい表情だった。 やはり樋口の話は事実だったということなのか。妻の実家のことを考えたら警察沙汰にできないのは道理だ。 「マヤを、よろしくお願いします」 速水は一瞬俺を強く見つめると、頭を下げた。 ![]() 大都芸能で渡されたパスを首にぶら下げて、俺はスタジオの前に立っていた。 時計に目を落とす。そろそろスタジオ入りの時間だった。 今日はそのまま北島マヤに付き添って、任務を開始することになっている。本人にはすでに会社の方から話がいっているそうだった。彼女の新居のすぐ下の部屋に俺が入居し、24時間体制で任務につくことにも納得しているらしかった。 この仕事で一番困るのは、肝心のクライアントに協力する気がない場合だ。たとえば、最近までついていた政治家は最悪だった。俺を縁起が悪いと毛嫌いし(確かに縁起がいいとは言えないが)、何かというと黙って姿を消した。必死で突き止めた先で女とよろしくやっている白豚を見たとき、俺は殺意に近いものさえ感じた。 面白くもない記憶をぼんやりと辿っていた俺の視界に、こちらに向かってくる集団が映る。俺は顔を上げた。 北島マヤだった。マネージャーがぴったりと付き添い、スタッフが脇を固めている。彼女は想像以上に小柄だった。大人の中に子供がひとり混じっているようだ。心持俯いた、どことなく寂しそうな表情。こんなに頼りなげな様子で女優など務まるのか疑問だった。 ステージのセットの脇にあるパイプ椅子に腰掛けて、北島マヤはメイクを整えられている。 資料によると、ナイトクラブのジャズ歌手という役どころらしい。なるほど、スパンコールが散りばめられたぴったりとしたドレスを纏い、派手な化粧を施された姿からは、あの平凡な素顔は少しも窺えない。しかし、どう考えても適役とは思えなかった。目の前の少女のような女は、夜の世界に生きる薄幸の歌姫とは程遠い。それに、ドレスが似合っていないのが致命的だ。 やがて監督が立ち上がって周囲のスタッフに声をかける。いよいよ撮影が始まるようだった。北島マヤがステージに上がって、マイクの前でスタンバイする。カメラが回る。その瞬間、彼女の顔つきが一変した。儚げで、憂いを含んだ、艶かしい表情。すうっと一息吸うと、彼女は歌い始めた。ジャズのスタンダードナンバーだった。確かFly Me to the Moonだ。 俺は自分の耳を疑った。小柄な体のどこからこんな声が出てくるのだろう。豊かな声量、伸びやかな歌声、自由自在にメロディーをひねり、揺らし、切々と恋心を歌い上げていく。そこにいるのは紛れもなく、夜の歌姫だった。歌姫は刻々と表情を変えていく。切なそうに目を細めて自分の体を抱き締めていたかと思うと、今度は世界を包み込むように大きく腕を広げて天を仰ぎながら至福に目を閉じる。小柄な体に不釣合いだと感じた大胆なドレスでさえも、華奢で少女めいた容貌と、内に秘められた情念のアンバランスさを引き出しているようで、見ていると何だか変な気分になってくる。 俺は完全に仕事を忘れて、北島マヤを見つめていた。この女は確かに特別だ。 2003.08.09 |
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