| 月が見えない夜は 4
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| written by lapin
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どうして、そんなことあたしに言うんですか? マヤは激しく動揺していた。真澄は来週結婚するのだ。真澄の意図がわからない。ただ、彼が本気で言っていることはわかった。この機会を逃したら、もう独身の彼とは会えない。二度と。 気づくと、マヤは小さく頷いていた。 ![]() いつの間にか眠っていたようだった。 気づくと、真澄の胸にもたれるような形になっていた。ブランケットの下で真澄の腕が体に回されているのを感じた瞬間、眠気が飛んだ。それでもマヤはじっとしていた。薄く開いた瞼の向こう、遥か下には広大な雪原がどこまでも続いている。白い大地をぼんやりと見つめていると、真澄が身じろぎした。マヤの頭を自分の顎の下に収めるようにして、さらに体を密着させると、真澄はぽつりと呟いた。 「愛している…」 目覚めていたことに気づかれただろうか。怖いほどに動悸している胸の鼓動が聞こえてしまったのではないか。マヤは目を閉じると、頑なに寝たふりを続けた。怖くて彼の真意が確かめられなかった。 美しい街の美しい秋だった。すべてが黄金に縁取られ、せつないくらいに輝いている。胸が痛くなるほどだった。道行く人々のコートから漂う暖かな匂い。枯葉が舞い散り、空はどこまでも高く、澄み切っている。真澄と寄り添って、どこまでも歩く。コートのポケットの中でつないだ手が暖かい。恋人のような真似も、ここでなら自然にできた。 半覚醒の中で聞いた言葉は胸の奥にしまった。ボストンに着くと、真澄はそんな様子はおくびにも出さず、自然に振舞った。ホテルの部屋は当然のように2つ取った。何を期待していたの、と自分を責めながら、マヤは心のどこかでほっとしていた。きっと、真澄は疲れているのだ。誰だって逃げたくなるときはある。なぜ自分を連れて来たのかはわからないが。 天から降ってきた夢のような3日間。この街にいる間だけは、ふたりきりで過ごせる。側で彼を見つめていられる。帰ったら、ちゃんとまた蓋をするから。胸の奥にしまいこんで、鍵をかけるから。だから、今だけは彼の恋人でいたい。たとえそれが錯覚だとしても。そのために後から死ぬほど苦しい思いをするとしても。 一生消えない思い出がほしかった。 自分でマヤを誘っておきながら、実際にふたりきりになってみると、真澄はどうしたらいいかわからなかった。突然世界が反転して、ついていくだけで精一杯だった。 マヤが自分の正体を知りながら、それでも受け入れてくれたということに、真澄は激しく揺さぶられた。思わず自分の気持ちを口走ってしまいそうだった。しかし、来週に迫った紫織との結婚は、当事者の思惑を離れてすでに動き出している。いまさらどうすることもできない。でも、マヤとそのまま別れてしまうのは堪らなく辛かった。気づくと、ついてきてほしいと口走っていた。まさかマヤが頷くとは思っていなかった。だが、彼女は来てくれた。 腕の中で眠る彼女の温かな柔らかい体を抱き締めながら、思わず愛を告げた。この期に及んで、いったい自分は何をやっているのかとため息が漏れた。 今だけだ、この街にいる3日間だけだ、と真澄は自分に言い聞かせる。最後に一度だけマヤと忘れられない時間を過ごせたら、それで満足する。必ず諦める。だから、今だけは彼女の恋人でいたい。 それで納得しているはずなのに、胸を締め付けられるような思いがするのはなぜだろう。 マヤは眩しいほどの笑顔を浮かべて真澄を見つめる。真澄の言葉に笑ったり、怒って言い返したりする。そのすべてが自分に向けられている。眩暈を覚えるほど幸せだった。そっと握った手を、戸惑いながらも握り返してくれる。 どこまでなら俺の我儘を許してくれるんだ? 目の前のマヤを見つめながら、真澄は心の中で問いかける。諦めや満足どころか、際限なく求めそうな自分が怖かった。 2日目の夕方、雨が降ってきた。ホテルの近所のバーで軽く食前酒を飲み、これから食事に出かけようと思った矢先だった。雨は勢いを増していく。激しく打ち付け、窓ガラスを伝う水滴を見つめながら、マヤが頬杖をついた。 「あーあ。すごくいいお天気だったのに。そう言えば、速水さんといるときによく雨が降る気がする」 まるで真澄のせいだと言わんばかりのマヤの口調に苦笑しながら、真澄は口を開く。 「そう言えばそうだな。君がまだ中学生の頃に全国演劇コンクールで一般投票1位を獲ったときも雨だったな。初舞台のとき、君は雨に打たれて役を掴んだんだろう?君の方が雨女なんじゃないか」 ジーナ。ベス…。あの頃からこの人は見ていてくれた。マヤの胸が熱くなる。 「違いますっ。そうだ。夢宴桜の舞台に立ったときも雨だった。忘れられた荒野のときも。速水さん、よく来てくれましたよね、あの台風の中。家出したあたしを公園まで迎えに来てくれたときも、雨だった」 マヤの声に篭っている響きに、真澄の鼓動が速くなる。いつの間にか空気が変っていた。 「…梅の谷で、雨の中で会った日のことを覚えていますか?」 忘れられるはずがない。社務所で過ごした一夜を、真澄は幾度思い返しただろう。誰よりも愛している相手と、あれほど近い距離にいて、心だけは遠くに離しておかなければならなかった。苦しくて甘美な記憶。マヤと別れた後で、彼女の残り香が漂う車内にひとり残され、気が狂うほどの愛しさに身悶えた。 「…ああ、よく覚えている」 低い声で答えると、マヤの目を見つめる。ゆっくりと視線が絡まる。どちらも目を逸らさなかった。お互いの視線の中に閉じ込められたように、ふたりは黙って見つめ合っていた。 「出よう」 掠れた声で真澄が言う。マヤは魅入られたように真澄を見上げたまま微かに頷いた。 軒の下に並んだまま、雨を見つめる。どちらも傘を持っていなかった。マヤが物問いたげな目を真澄に向けた瞬間、真澄は上体を傾け、覆い被さるようにマヤに口付けた。マヤは一瞬目を見開いたが、すぐに思う。本当は驚いてなんかいない。この瞬間だけを待っていた、ずっと前から。 雨に閉じ込められ、静寂が支配する小さな世界の真ん中で、ふたりはいつまでも果てることのないキスを交わしていた。 やがて、真澄がコートを頭上にさし掛けると、ふたりは雨の中をホテルまで走って戻った。ほてった体の表面を、秋の雨が冷たく濡らしていく。真澄は何も言わずにマヤを部屋に招き入れた。マヤも何も言わずに従った。ドアがパタンと背後で閉まる。それが合図だった。ふたりは一瞬見つめ合うと、中断などなかったかのように、夢中でキスの続きを始めた。真澄の指が壁を探り、スイッチを切る。暗くなった部屋の中で、カーテンを閉めていない窓際だけがぼんやりと明るい。縺れるようにベッドに倒れこむと、ふたりは初めて固く抱き合った。 一度だけ。今だけ。だから、どうかあたしを許してください。 誰に許しを乞うているのか自分でもわからなかったが、真っ白になった頭の中でそう唱え続けた。繰り返し押し寄せてくる波のようなうねりの中で、必死に何かに捉まろうと手を伸ばす。真っ逆さまに闇の中を落ちていく。何も見えない。恐怖のあまり声を上げようと思うが、声が喉の奥で凍り付いたまま出て来ない。次の瞬間、強く手を掴まれる。 固く絡まり合うふたつの体の境界が溶けてひとつになればいい。このまま消えてしまえたらいい。 祈るような思いでその人の体にしがみつきながら、ふたりで底のない闇の中をどこまでも落ち続けた。 3日目は一日中ホテルの部屋に篭っていた。 窓の外では、灰色の世界の上に静かに雨が降り続け、部屋の中にも雨の匂いが立ち込めていた。仄かに湿ったシーツの間で、ふたりは眼前に迫り来る出発の時間を必死に頭の中から追い出そうとしていた。先のことはどちらも口にしなかった。一瞬でも長くこうしていることがすべてだった。それ以外のあらゆることを締め出すように、夢中で抱き合った。どんなに満たされても足りなかった。どんなに近づいてももどかしかった。まったく先が見えない、嵐のような恋の真っ只中で、ふたりは静かに向き合っていた。 白い大地が眼下に広がっている。 3日前にここを通ったときと、自分はどれくらい変っただろう? 固く手を繋いだまま、隣の真澄を想う。まだ、抱き合ったときの余韻が体に生々しく残っている。彼の指も唇も体温も鮮やかに感じることができる。こうして、別々の体を持って、隣り合ったシートに分かれて座っていることが信じられない。胃がきゅっと持ち上がるのがわかった。彼が欲しかった。今までの何倍もの強さで引き寄せられる。どんどん好きになっていく。止められない。窓の外の凍えた景色を見つめながら、マヤは唇を噛んだ。真澄が繋いだ手に力を込める。 「独身の俺が君と会えるのは今日が最後だ。君とふたりで会うのも、これが最後なのか?」 真澄の声は、怖いほど静かだった。心臓がぎゅっと捉まれたように痛む。やはりこの人は結婚してしまう。わかっていたが、一瞬息が止まるくらい辛い。黙っていると、真澄が小さく息を吐いた。 「こんなことを君に訊くこと自体、俺の身勝手なのはわかっている。これから俺が君に言うことはもっと身勝手だ」 真澄はマヤの肩に手をかけると、自分の方を向かせる。ゆっくりと視線を合わせる。彼の目には、暗く、切実な光が宿っていた。怖いほど真剣な表情に、目が逸らせなくなる。 「俺は君に恋している。これからも君に会いたい。君を失いたくない。いつも君だけを見ている。だから、君にも俺だけを見ていてほしい」 畳み掛けるように重ねられていく言葉に、胸が圧迫されたように息苦しくなってくる。あの狂ったような時間の間も、「愛している」と「好き」は決して口にしなかった。言葉が及ばない場所にふたりで旅立ってしまったから。そこから永遠に帰って来られなくなればよかったのだ。 「速水さん、ずるい。そんなこと言うなんて、ずるい…」 真澄はマヤを抱き寄せると、すまない、と呟いた。優しく髪に口付ける。 離れられない。 口には出さずに、マヤは湧き上がる思いを噛み締める。一度だけのつもりだった。でも、残酷にも気持ちは通じ合ってしまった。言葉さえいらなかった。もう、戻れない。それなら、行けるところまで行くしか、ない。自分の手で帰り道を捨ててしまったのだから。 2年…。それが長いのか短いのか、マヤにはわからない。最初は次があるとは思えなかった。今でも、冷静に考えれば、何の保証もない関係だということに変りはない。それでも、最近では、約束ができない関係なりに彼を信じることができるようになっていた。彼は約束を守る人だ。だから、いい加減な約束は決してしない。妻と別れるとか、結婚しようとか。どんなに気持ちが高まっているときでも、彼はそれらの言葉を絶対に口にしない。代わりに彼は言う。愛している、と。生涯で唯一愛する相手だと。何があっても変わらない。自分のすべてをかけて守り続ける、と。そして、彼はその言葉を裏切ったことは一度もない。 未来なんていらない。約束なんてしなくていい。いま、心と体のすべてを賭けて愛している相手から同じように愛されている。それでいい。 胸に刺さったまま抜けない小さな刺、ぽっかりと開いた空洞。決して表には出せない言葉と感情。カットの声が頭に響いた瞬間に引き戻される場所は、誰にも教えない。 But it wouldn't be make believe If you believed in me 柵にもたれて欠けていく月を見上げたまま、マヤは小さく歌を口ずさんだ。 ![]() 夫が彼女と会ってきたことは、すぐにわかった。 夫は穏やかな顔をしていた。コーヒーを運んできた使用人にお礼を言って、微笑みかけさえした。長い指で華奢なカップを持ち上げると、薄い縁に唇をつけて、おいしそうにひと口飲む。見つめている私に気づくと、夫は柔らかく私を見つめ返した。次に夫がなんと言うかは聞く前からわかった。 「今朝は顔色が良いですね。昨夜はよくお休みになれましたか?」 夫が、用もないのに自分から私に話しかけることはほとんどない。私が話しかければ、夫は必ず丁寧に答える。でも、会話が途切れた瞬間に、夫は素っ気無く自分の中に戻って行ってしまう。だから、こうやって自分から私のご機嫌伺いをしてくれることはめったにない。せいぜい、月に一度か多くて二度だろうか。それが彼女と会った翌朝だと最初に気づいたとき、自分の体が指先まで冷たくなっていくのを感じた。やはりそうだったのか、と思った。 夫は、私以外の女性を愛している。私はそれを承知で結婚した。私たちの結婚生活は二年目を迎えるが、私たちが積み重ねてきたことなど何もない。同じ屋根の下で別々に生活し、公の場に連れ立って外出し、連名で年賀状を出す。それだけだ。 思い出したくないほど辛い過去だが、私は夫と彼女を引き離そうとして酷いことをたくさんした。ふたりを傷つけて、自分自身も傷ついた。そして、今も私は夫を諦められない。なぜ、ここまで夫に執着してしまうのだろう。自分でもわからない。希望などないことはよくわかっている。それなのに、私は自分から辛いこと、苦しいことを求めるかのように、残酷で不毛な遊びを止められない。 私の手元にはたくさんの資料がある。彼女がこれまで出演した舞台の写真や記録。テレビ出演したときの映像やインタビュー記事。それに、彼女の過去に関する詳細な調査書。お金と時間さえかければ、たいていのことはわかる。 最初は、頑なに彼女の存在を無視することで、彼女に怯える自分を意識しないように努めていた。やがて夫も諦めて、私の元へ帰って来ると信じ込もうとした。でも、夫の態度から、彼女との関係が消えるどころか強固になっていることに気づいた瞬間、私は変わった。すべてを知りたいと思った。知れば傷つくことはわかっていた。でも、傷つかないように自分を守ること自体、放棄してずいぶん経つ。 結婚前に、伊豆の別荘で彼女の写真が収められたアルバムを見た日から漠然とわかってはいたが、彼女の人生には常に夫が影のように寄り添っていた。紫のバラの人としての数々の援助、大都芸能の社長秘書時代からの様々な干渉。一見すると、表の彼は彼女の行く手を阻む障害に見える。でも、行間を読み込んでいくと、そこには全く別の顔が浮かび上がってくる。それは、憎まれ役を自ら買って出ることによって、彼女をさらなる高みへと引き上げようとする導き手の顔。誰も気づかなかったのだろうか。資料さえ揃えば、火を見るより明らかなのに。恒星の周囲を永遠に巡り続ける惑星のように、真澄様の人生はマヤさんの周りを巡って展開している。 昨夜、夫とふたりでパーティーに出席した。彼女が主役のパーティーだった。薄い紫色の絹のドレスを纏って、バラの形にアメジストがあしらわれた髪飾りを挿した彼女は、可憐で瑞々しかった。おどおどとした対応も初々しく、あからさまな興味の視線が次々と彼女の上に降り注がれるのが離れていてもわかった。夫が彼女を意識していることは明らかだった。私と同じ方向を夫も向いていたから。絶望的な気分になるのが普通なのかもしれない。でも、私は密かにうれしかった。こんなとき、私と夫は同じものを見ている。同じことを考えている。マヤさんの背中、いつこっちを振り向いてくれるのだろう。 見つめる私たちの視線に気づいたのか、彼女が振り向いた。一瞬顔が強張った。マヤさんの目が吸い寄せられたように夫を見つめる。夫を見上げなくても、ふたりが見つめ合っていることはわかった。 無言の透明な絆が一瞬で結ばれる。隣に立っているだけで眩暈がした。それほど、熾烈で濃密な空気を感じた。たぶんそれは一瞬のことだったのだと思う。 マヤさんは社交的な微笑を浮かべて近づいて来ると、丁寧に私にあいさつした。真澄様が当り障りのない賛辞をひと言、二言口にした。マヤさんは恐縮したように目を伏せたままでそれに応えると、逃げるように去っていった。壁際に立っているSPと思しき外国人の元へ、まっすぐ向かっていく。 なぜか無性に寂しかった。見上げた真澄様の顔は仮面のように無表情で、視線だけが遠ざかっていく小さな背中をじっと追っている。でも、心の中は、きっと死ぬほど寂しい。私には、わかる。 そう、夫も彼女も私のことをとても気遣っている。夫は、ちゃんと隠してくれる。以前にはっきりと告げられた。彼女を愛していること、私を愛することはできないこと。それでも、これ以上私を傷つけないように夫は配慮してくれる。本当は、私を裏切りたくはなかったのだと思う。夫は、とても責任感が強い人だ。約束は破らない。唯一の例外が、マヤさんを諦めるという私との約束。正しくないことをそうとわかっていてせずにはいられないことの苦痛は、誰よりも私がよく知っている。 夫は気づいているだろうか。私が日々こんなことを考えているということを。 辛いのは愛されないことではない。夫から彼女を取り上げたら、私も夫を失うということ。彼といるためには、目が見えず、耳が聞こえない振りをし続けるしかないということ。それでも、自分は迷わずその道を選んでしまうということ。それが、辛い。 夫を送り出した後で、身支度を整えて、外出する。以前、日本画を習っていた先生の個展が日本橋で開かれているので、まずそちらへ寄ってご挨拶し、知人への贈り物を見繕って、最後にある人物と落ち合うことになっていた。その人は…興信所の調査員だ。やめようやめようと思いつつ、月に一度ずつ届けられる報告書を習慣のように受け取り続けていた。マヤさんの調査を依頼してからというもの、その興信所は、その後の経過というのだろうか、マヤさんの近況を知らせてくる。そこには、当然夫も含まれている。白黒写真の中のふたりは、遠い世界の別人のように見える。とても慎重に会っていることはよくわかった。無防備なショットはほとんどなかった。マヤさんのマンションから少し離れたところに停められた夫の私用車。近所の店で買い物をする夫。それくらいだ。 ふたりの交際を報じた記事などは一切ない。ゴシップもないはずだ。噂になれば、必ずおせっかいな誰かが私の耳に入れるはずだから。本当のところ、夫と彼女の交際を報告してもらう必要はない。ふたりが会ったと私が感じた日は、後で確認すると例外なく当たっていた。聞くまでもない。 夫は、マヤさんについては驚くほどわかりやすい。 「まあまあ、紫織さんいらっしゃい。今日はどうもありがとう。…あら、奥様と言うべきだったかしらね」 先生は目を細めると、袂を口にあてて、うふふと笑った。もう、還暦を迎えるお年だが、華があって、いつ見てもとても上品で素敵な方だ。 会場の奥にある控え室に通される。 「さあ、どうぞ。召し上がれ」 お弟子さんが運んできた冷茶と水羊羹を前に、向かい合う。 「ご結婚されたとき以来だから、えーっと」 「じき二年になります。ご無沙汰を致しておりました、先生」 私が頭を下げると、先生は慌てたように手を振った。 「とんでもない。いろいろ大変でしょう、ご結婚されると。ああ、そうそう、吹田様のお宅で見せていただきましたよ、梅と雪の」 吹田様は父の古くからの友人で、家業の宝石商を営む傍ら、美術品の蒐集をされている。昔から私のことをとてもかわいがってくださった、大好きな方だ。結婚して半年ほど経った頃だろうか。夫と彼女の関係に気づき始めた頃に、私は久しぶりに画を描いた。その画を吹田様がとても気に入ってくださって、是非にと引き取られたのだ。 「素晴らしかったわ。梅がね、泣いていました。春とは言ってもまだまだ寒くて、春なのにと思うから余計に寒くってね。そんな感じがしましたよ、あなたの画は。紫織さん、お変わりになったわね」 先生があんまりしみじみとそう仰るので、涙が膨れ上がる。ぎりぎりのところで何とか抑える。 「あらあら、ごめんなさい。泣かせるつもりはなかったのよ。そうだわ、お詫びというわけじゃないけれど、これをあなたに差し上げましょうね」 先生が袂から水浅葱色の封筒を取り出す。 「宗方さん、覚えていらっしゃる?確か、同じ頃に通われてたんじゃなかったかしら」 そう言えば、そんな方がいらしたような気もする。確か私よりぐっと年配の方で、旦那様のお仕事の都合で海外が長かった方だ。 「お嬢さんがいらっしゃるの、あの方。ピアニストでいらっしゃるそうですよ。9年間ドイツにいらしたんだけれども、最近帰国されて、リサイタルを開かれるの。とても楽しみにしていたんですけれどね、協会の方のお仕事が入ってしまって。代わりに行っていただけると有難いんだけれど。どうかしら」 8月10日。6時開演。宗方杏子・ブラームスと過ごす夏の宵へのお誘い。 「頂戴致します。有難う存じます」 2枚のチケットをハンドバッグに入れる。ちらりと頭を掠めた考えを急いで振り払う。2枚なんて、誘う相手もいないのに。 ゆっくりと近づいていくと、止まっている車の後頭部のドアが開いた。するりと乗り込む。いつものように封筒だけ受け取ってさっと出ようとして、私は息を飲んだ。 そこにいたのは全く見知らぬ男だった。 少しくたびれた、いつもの中年の調査員を予想していたためか、衝撃を受ける。男は30代の前半から半ば、ちょうど夫くらいの年代だった。全身黒尽くめの格好で、長い髪を後ろでひとつに束ねている。薄いサングラスの向こうの目が、私に照準を絞りながらゆっくりと細められる。 死神だ。そう思った。 ![]() 2003.08.10 |
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