月が見えない夜は 5
written by lapin
目を開くと、見知らぬ天井が視界に映った。白い。ゆっくりと首を回すと、何もかもが白かった。そうか、病院だ。なぜ、病院にいるのだろう。どうしても思い出せなかった。
がらりとドアを滑らせながら、麗が入ってきた。花を挿した花瓶を手にしている。

「マヤ!」

「麗!」

うれしくて飛び起きたいが、体がだるくて言うことをきかない。

「あんた、やっと意識が戻ったんだね。本当に心配したよ」

麗は安堵で顔をくしゃくしゃにしながら、マヤの頭をごしごしと撫でた。

「先生を呼んで診てもらおうか。意識さえ回復すれば心配ないって言ってたけどね」

麗がナースコールに手を伸ばす。

「ねえ、あたしどうして病院にいるの?」

麗の背中が強張る。花瓶をベッドの横の台に置く。ちょんちょんと花をいじりながら、麗が口を開く。

「あんた、最近働きすぎだったんだってね。水城さんから聞いたよ。過労でぶっ倒れるまで働くことはないじゃないか」

「ねえ、麗。お願い。本当のことが知りたいの」

麗のシャツの端を?むと、ぐっと引っ張る。大事なことを知らないでいると思うと、心臓がぎゅっと?まれたように痛んで、呼吸のたびにどくどくと不安が広がっていく。

「マヤ…」

麗は痛々しそうにマヤを見つめると、ベッドの端に腰を下ろした。

「…何にも聞いてないの?社長から」

「速水さんから?ううん」

最後に真澄と会ったのはいつだろう。あの映画の受賞記念パーティーがあった晩だ。
不意に、灯りが消えた部屋と顔をなぞる指が蘇る。どくんと心臓がはねた。

「そうか…。あんた、最近ボディーガードついただろ。今も部屋の外に立ってるけどさ」

「うん。カイルさんでしょ。最近、物騒だから気を付けた方がいいって速水さんが。芸能人なら珍しくないからって…ねえ、何があったの?」

どんどん不安になっていく。麗は目を伏せて考え込んでいたが、思い切って顔を上げた。

「あんた、狙われてるんだよ。お茶にヒ素混ぜた奴がいたんだ。それをあんたに飲ませて…。あのボディーガードがいなかったらやばかったらしいよ」

「嘘…どうして、あたしが…」

昔、高校生だった頃に、芸能界から追放されたことを思い出す。あの時も、人の悪意がうまく理解できなかった。今はもう少しわかる気がする。でも、なぜ命まで狙われなければならないのだろう。お芝居のために誰かを殺したいなんて思う人がいるのだろうか。

「どうして…どうして、あたしを殺したいんだろう、その人。あたし、その人に何をしたんだろう…ねえ、麗、どうしてだと思う?」

麗は苦しそうに顔を歪めると、マヤの肩を?んだ。

「あんたは何にも悪くないよ。何もしてない。いいかい、自分を責めちゃだめだよ。わかったね?」

こくりと頷いて見せたものの、一度考え始めたことは止まらない。自分のせいで嫌な目にあった人を思い出そうとしてしまう。役を盗られた役者がいたのかもしれない。自分のせいで大事なチャンスを逃してしまったとか。考えてもわからなかった。そういうことはマヤの耳に届く前に処理されている。でも、殺すほど恨むはずはないとも思う。仕事以外で自分がやったことで誰かを決定的に傷つけたこと…あった。マヤが犯した過ち。真澄と隠れて会っていること。血の気が引いていくのを感じた。
あの美しい人が。まさか。






「どなたですの?あなた。探偵さんか何か?」

男は唇の端を歪めるように笑った。

「まあ、そんなところですね。あなたの友人と名乗る方が僕はしっくりきますが」

「私の…友人」

寒気がした。車の中は寒いほどではないはずだ。でも、体の内側から湧いてくる震えはどうしても抑えられない。

「ええ、そうですよ。友人としてあなたに申し上げたいことがありましてね、速水紫織さん」

男が自分の名前を口にした瞬間、ひどく侮蔑されたようで、体がカッと熱くなった。言い返したいと思う。でも、言葉は喉の奥に引っかかったまま、出てこない。

「いい目だ…そうですよ、あなたは誇り高い人だ。違いますか?あんな女優風情に大きな顔をさせておくなんて、僕は嘆かわしい」

男は大げさにため息を吐いた。そうか。夫と彼女のことで強請りに来たのだ。そうとわかれば、まだ対処の仕方はある。ひとつ息を吸うと、私は口を開いた。

「いくら欲しいのですか?」

男がサングラスの向こうで目を見開いた。

「これはこれは。出来た奥様ですね。旦那様を庇うつもりですか?…お金なんていりませんよ」

「じゃあ、何が目的なのです?」

男は、ゆっくりとタバコに火を付けると、長く煙を吐き出した。

「ねえ、奥さん。本当はあの女が目障りなんでしょ?あの女さえいなくなれば、ご主人はあなたのものだ。あなたほど美しくて、聡明で、肝も据わってて、ご主人を愛している人が、なんでこんな目に遭わなきゃいけないんです?」

男は茶封筒から数枚の写真を取り出すと、こちらに無造作に投げた。彼女のマンションから出て来た夫と、ベランダから見送る彼女が見つめ合っている写真。

「僕に任せてください。報酬なんてみみっちいことは言いません。曲がったものを正すだけのことです。ね?」

男が粘っこい口調で言う。私は必死に考えていた。

この男はマヤさんを傷つけるつもりだ。マヤさんに何かあったら夫は絶対に平静ではいられない。会社のことも、将来のことも、何も考えられなくなるだろう。私との離婚は確実だ。夫が自棄を起こすようなことだけは困る。私は今のままでいたいだけなのだ。でも、どうしたらいい?お金ではないと言われると、何も浮かばない。

「なぜ私にそんなお話を?私、みんなしゃべってしまうかもしれませんわ」

「ははは。あなたはしゃべらない。いや、しゃべれない。よろしいんですか?これまであなたが嗅ぎ回っていたことが全部ご主人にわかっても。ご主人だけじゃないなあ。あなたのお母さん、お父さん、みんな悲しむでしょうねえ」

男は愉快そうに笑った。こんな虫けらのような男、捻りつぶしてやりたい。恥を忍んで実家に言えば、ものの数分で片がつくことはわかっている。でも、そんなことをしたら、間違いなく別れさせられる。その上、祖父は烈火のように怒り狂って真澄様の不実を責め、場合によっては立ち直れないくらい制裁を加えるだろう。

「ようやくわかっていただけたようですね。では、始めましょうか」






眠れなかった。

一度その考えに取り憑かれると、他のことが何も考えられなくなった。確かにずっと酷いことをしてきた。なるべく、そう考えないようにしていただけで本当はずっとわかっていた。あの人は奥さんなんだから、あんなにきれいで、何でも持っていて、恵まれてるんだから…だから、人の夫を奪っていいことになるだろうか。きっと、とっくにばれていたのだ。何てずうずうしい、汚い真似をする小娘だろう。平気で人を欺いておいて笑って見せて、と心の中で思いながら、あの人は上品な微笑を浮かべて自分に答えていたのだろうか。いたたまれなくなる。
間違っていることはわかっていた。でも、どうしても自分を抑えることができなかった。…嘘だ。本当に抑えようとしたことなんてあっただろうか。愛していると言われたときから、有頂天になった。自分から彼に応えた。あの雨の晩から、今までずっと。本気で彼を拒んだことなど一度もない。
有罪。情状酌量なし。

不意に吐き気が込み上げる。慌ててベッドの側のゴミ箱を引き寄せる。ほとんど何も食べていないのに、断続的に吐き気が襲ってくる状態が続いていた。入院する前から、体調はあまり優れなかった。そう言えば、生理が遅れている。
不意に、頭を金槌で打たれたような衝撃が、ゆっくりと体の端まで伝わっていく。最後にあったのはいつだろう。あの人はいつ来たのだっただろう。頭が回らない。夢の中で誰かに追いかけられていて、どうしても足が進まないときのように、背後に迫ってくる気配に怯えながら、どうすることもできない。じっとりと汗をかいていた。心臓がどくどく打ち、赤黒い血が指先まで巡ってきて、そこでとくとく脈打っているのを感じる。

ごめんなさい。神様。もう遅いかもしれませんが、許してください。何でもします。だから、お願い。






どうすればいいのだろう。

どうやって屋敷に帰ったのか覚えていない。気づくと、車が玄関に横付けされていて、運転手がドアを開いていた。あの男と別れてから何をしたのか少しも覚えていない。夢遊病のような状態で車を降り、待たせていた車までひとりで歩いたのだろう、きっと。頭がいっぱいで、考えなければいけないことがあるのに、ひどくぼんやりしていた。

「簡単なことです。僕があの女からご主人を取り返して差し上げます。報酬はいただきません。ただ、あなたに少ーしお手伝いしていただきたいんです。ま、いきなりお返事をいただくのも何ですのでね、こうしましょう。僕が本気だということを近いうちにお見せします。あなたはそれを見てからゆっくり決めればいい」

そう言うと、男は私のハンドバッグから覗いている封筒を手に取り、チケットを1枚抜き取った。あっという間の出来事だった。

「このコンサートの日までに、あなたを驚かせて差し上げます。当日にお会いしましょう。ごきげんよう」

ドアが開いた。狂ったように陽気な口笛を背に、車を降りた。黄昏の往来を、忙しなく行き交う人の群れ。その瞬間、ぐにゃりと世界が歪んで見えた。






一日も早く、病院に行って検査してもらわなければ。

病院にいるのに病院に行くというのも変だが、まさかここでついでにというわけにもいかない。会社で手配してもらった病院だ。間違いなく彼の耳に入る。それだけは困る。
もし、本当にそうだったらどうしよう。
その可能性に気づいたときからそればかりを考えていた。言えない。それだけははっきりしている。彼は優しい人だ。きっとすごく苦しむ。全てを捨ててしまうかもしれない。それだけはやめさせなければ。彼がどれほどの重圧と戦っているかはよく知っている。想いが通じた後での結婚は、自分以上に彼にとって苦渋に満ちた選択だった。大勢の社員や社会的な立場、逃げられない責任が彼を固く縛っている。今だって十分苦しんでいるのに、これ以上悩みを増やすようなことを言えるはずがない。じゃあ、ひとりで産んで育てるのだろうか。舞台はどうすればいい?…無理だ。だいたいすぐにばれるだろう。彼は必ず真実を突き止めるに違いない。それが仕事なのだ。八方塞だった。

マヤは両手でこめかみを押さえながら、無意識に体を前後に揺すっていた。極度の緊張から、独りでに体が動く。ぴくっと動きが止まる。両手で頭を抱え込んだまま、マヤはゆっくりとベッドの上にうつ伏せた。

中絶。結局、それが唯一現実的な選択だった。愛している人との間に子供を授かったとしても、その子は決して祝福されることはない。それが、マヤの選んだ道、二年間歩いてきた道の果てだった。
そういう関係を、世間では不倫と呼ぶ。初めてそれが実感できた瞬間だった。心が真っ黒に塗り潰されていく。
これは罰だ。無償の愛を無償の愛で返せなかった、欲張りで弱い自分に対する報いだ。






ホールは静かな緊張で満たされていた。微かな衣擦れや咳払いさえほとんど聞こえない。ぴんと張り詰めた空間に、音が充満している。宙に描き出されていく色や形が見えそうなほど、くっきりしていて、鮮やかな演奏だった。
固唾を呑んで聴き入る聴衆の中で、紫織は独り、無音の空間に座っていた。

あの男は本気だ。マヤさんは毒を盛られて倒れた。伏せられているようだが、夫のあまりの憔悴ぶりに嫌な予感がして調べてみたら、すぐにわかった。それ以来、怖くて仕方がない。気持ちばかりが焦って、何も考えられないまま、今日を迎えてしまった。隣の席は空いている。そこにぽつんと置かれている銀色の物体。いつそれが鳴り出すか、びくびくしながら待っている。
ついに最後の曲を残すだけとなった。舞台の上でピアニストは最後の調整を行なっている。その時だった。バイブ音が低く鳴り響いた。慌てて携帯を?み、震える指で受信メールを開く。

『舞台裏の階段付近で待つ』

小声で謝りながら座席の間をすり抜けると、右脇の扉を押して廊下に出る。演奏中の舞台の裏は、閑散としている。蛍光灯の灯りが虚ろなほど白く明るく、とても静かだ。踊り場に出る扉に手をかけた瞬間、後ろから声をかけられる。いつの間にか、あの男が後ろに立っていた。

「お楽しみいただけましたか?ちょっと愉快だったでしょう。まだまだこれからですがね」

「私に何をさせるおつもりですか?」

「話が早くていいですね。何、大したことではありませんよ。ご主人とあの女を呼び出していただきたい。これだけです。ふたりであなたを裏切っているのですからね、血相を変えて駆けつけるはずですよ。後は高みの見物と参りましょう。あなたと僕と、ふたりで」

ぎゅっと唇を噛んで睨みつけるが、サングラスの向こうの目は面白げに細められたままだ。

「その携帯は持っていてください。近いうちに連絡を差し上げます。では、ごきげんよう」 黒い影は楽屋の方角に消えた。
扉に手をかけて開く。螺旋状の階段が続いている。ゆっくりと一段目に足をかけると降り始める。どこかにスピーカーでもあるのだろうか。ピアノの音色が流れてくる。
何だろう、この曲は。初めて聴くのになぜかなつかしい。限りなく優しく、美しく、でもどこか虚しい響き。小部屋の中で、壁に向かって延々と独り言を言い続けている老女のような閉じた旋律。
何段くらい降りただろう。少しも進んだ気がしない。なんて長い階段なのだろう。私は永遠にこの階段を降り続けているのではないか。
ああ、そうか、これはきっと罰なのだ。過ちだと知りつつ正すことができなかった、卑怯で臆病な自分に対する報いだ。






「北島さん、どうぞ」

看護婦の事務的な声に、心臓がどくっと脈打つ。ついに来た。審判の瞬間。血の気が引いた真っ白い顔で、マヤはふらふらと診察室に入っていった。

結局、病院には3日間いた。表向きは過労で倒れたことで処理されたらしかった。ドラマの撮影は急遽台本を変更することで、主役不在のまま終了していた。実質的なクライマックスは撮り終わっていたので大きな問題はなかった。もっとも、問題があったとしても、真澄のひと言で決着は着くわけだか。
麗とカイルに伴われてマンションに戻った。仕事復帰は翌週からだった。その前に、どうしてもやっておかなければならないことがある。気が重かったが、考えても仕方がない。行動することにした。最初に浮かんだのは水城だったが、立場上、上司に隠し事をすることは難しいだろうと考えて相談するのはやめた。彼女なら真澄とのことを知っているし、いろいろと詳しそうだから味方についてくれたら心強いと思ったが、やはり巻き込むのは気が引けた。後は麗しかいない。
マヤから事情を打ち明けられたとき、麗はぎょっとした顔で一瞬口を開きかけたが、結局何も言わなかった。てっきり怒られて、すぐに別れろと言われるだろうと予想していたマヤにとっては、意外な反応だった。憔悴しきったマヤを前にして、とてもじゃないがきついことなんて言えないと麗は思ったのだった。もっとも、結果によっては真澄にはっきり言ってやるつもりだった。どう考えても責任が重いのは真澄の方だ。既婚者で所属事務所の社長でありながら、10歳以上年下の所属女優を2年も不倫関係に置いた上、さらに追い詰めているのだから。
マヤと真澄の関係は、ふたりにとっては純愛でも、傍から見ている者にとっては、マヤが一方的に傷を負う不当な関係にしか見えない。憤りを感じているのは麗だけではなかった。カイルも同じ気持ちだった。

マヤが診察を終えて待合室に戻ってくる。紙のように白い顔をしている。
まさか、本当に…。麗は何と言って言葉をかければいいのかを必死で考える。何も思いつかない。
マヤが隣にすとんと腰を下ろす。

「…麗、大丈夫だった。違った」

聞き取れないほど小さな声でマヤが言う。

「ほんとかい?!あー、よかった。よかったよ。あんた、ほんとによかったね、マヤ」

麗は涙がにじみ出るくらいほっとしていた。ひとしきり喜んだ後で、マヤの様子がおかしいことに気づく。少しもうれしそうではない。むしろ、ここに来るまでよりもさらに思い詰めた顔をしている。

「マヤ?あんた、どうかしたのかい?」

マヤの顔を覗き込みながら、恐る恐る尋ねる。マヤの顔が強張る。指が白くなるほど強く、スカートを?んだまま、マヤはゆっくりと口を開いた。

「麗、あたし、速水さんと別れる」







「いよいよですわね、真澄様」

冷静な声の中に、抑え切れない興奮をわずかににじませながら、水城が言う。

「ああ、そうだな。君には本当に世話になった」

真澄から面と向かって礼を言われると、さすがの水城も一瞬狼狽する。しかし、すぐに立ち直る。

「いいえ。私は秘書として当然のことをしたまでですわ」

水城らしい物言いに苦笑を浮かべながら、真澄は改めて思う。
やっとここまで来た。あの雨の匂いのする部屋からここまで来るのに2年近くかかってしまった。
明日、正式に辞令が下りる。真澄は、大都グループの総帥に就任する。

紫織と結婚して間もない頃、真澄は英介に呼び出された。屋敷でも会社でもなく、英介が贔屓にしている小料理屋でふたりは会った。予想がつかない行動を取る義父に、真澄は不安が隠せなかった。こんなことは初めてだった。座敷で向き合うと、英介は唐突に尋ねた。

「おまえ、本気なのか?」

真澄は冷や汗を流しながら、義父の耳の早さに舌を巻いていた。

「何のことです?」

あくまでもシラを切り通そうとする真澄に対して、英介は言下に言った。

「とぼけんでもよろしい。わしに隠し事ができるとでも思っていたのか、おまえは。…どうやらあの娘はおまえの天女様らしいな」

真澄は怪訝そうに英介を見た。疫病神だの女狐だのと言われるならともかく、天女と言った英介の声に皮肉は感じられなかった。

「おまえ、本気なのか?」

もう一度、同じことを尋ねられる。

「…はい。僕は、本気です」

一番警戒しなくてはならない相手である義父に対して、なぜか素直に真澄は答えていた。自分の覚悟を見せておきたかったのかもしれない。

「そうか」

英介は怒った様子もなく、手酌で杯を満たすと、ぐいっと呑んだ。手の甲で口を拭う。

「どうする気だ?鷹宮との提携はもう動き出している。うちからも相当出資しているだろう?」

責める調子ではなかった。むしろ、一緒になって考えてくれようとしているようだった。
真澄は混乱していた。激しい調子で見合いを勧め、強引に決めたのと同じ人物とは思えない。

「お義父さん。何を考えてらっしゃるんです?」

警戒心を剥き出しにした真澄の顔を見ると、英介は面白そうに笑った。

「おまえがどういうつもりかは知らんが、あの娘は紅天女だ。日本の宝だよ。大事にせにゃならん。おまえが紫織さんと別れることができて、何とか会社も傾かずに済んだとしても、今のおまえとじゃあの娘がかわいそうだな」

「どういう意味です?」

「おまえは芸能社の経営者だぞ。そして、あの娘は女優だ。商品に手を出したと言われる。あの娘だって、色仕掛けで業界の有力者に取り入ったと言われるだろうな。どちらにとっても面白くない」

英介の言っていることは真実だった。もちろん、真澄自身はそんなことは痛くも痒くもない。だが、マヤに肩身の狭い思いをさせたくはなかった。

「真澄。大都の総帥になれ」

英介が低い声で言い切る。有無を言わさぬ迫力だった。

「お義父さん…」

つまり、英介は引退しようとしているのだ。グループ全体の経営を司る最高位を譲ろうと言っているのだ。

「おまえが大都の総帥になったら、おまえとあの娘との結婚を許してやろう。わしの許しなどおまえにとっては鬱陶しいだけかもしれないが、あの娘にとってもその方がいいだろうな。鷹宮との提携で得ている利益を維持しろ。それが就任の条件だ。鷹宮がビジネスだけの関係で納得してくれるならそれでいい。もし、提携が継続できないなら他の手を考えろ。おまえの腕の見せ所だ。わかったな?」

「お義父さん…」

真澄は驚きと何かわけのわからない感情で胸がいっぱいだった。それは感動だったかもしれないし、初めて向けられた親子の情のようなものに対する気後れしがちな喜びだったかもしれない。英介がマヤとのことを知っていて、なおかつ認めようとしてくれていることが少しも嫌ではなかった。
それは、雪解けだった。英介が第一線を退く決意をしたために、ビジネス一辺倒の冷たさが和らいだこともあったし、期待通りの成長を見せた真澄に満足していたということもあった。念願の紅天女の上演権が大都に帰属したことで、長年の確執がひと段落していたことも関係している。とにかく、その晩、ふたりは初めて穏やかに向き合い、酒を酌み交わしたのだった。

それから約2年。打てる手はすべて打った。外堀は埋まった。後は紫織との離婚を残すだけだった。鷹宮家にしても、離婚くらいですべての提携関係を破棄するとは思えない。しかし、もしそうなったとしても迎え撃てるだけの万全の準備が整っていた。

真澄の携帯が鳴る。聖だった。

「そっちはどうだ?…よし、わかった。そのまま進めてくれ。頼んだぞ」

報告だけ受けると、さっと切る。もう一息だった。早くマヤの曇りのない笑顔が見たかった。それだけを頼りにやってきたようなものだった。マヤがいるから、真澄は日々立ち上がることができるのだ。

また携帯が鳴る。公衆電話からだった。

「もしもし、速水だが」

電話の向こうから低いざわめきが聞こえてくる。相手は賑やかな場所にいるようだった。しばし沈黙に耳を傾けると、真澄は口を開いた。

「マヤ?」

今までマヤが真澄の携帯にかけてきたことは一度もない。だが、真澄は確信していた。マヤだ。

「…速水さん」

やはりマヤだった。

「どうしたんだ?何かあったのか?」

電話の向こうにいるマヤを思い浮かべながら、真澄は優しく尋ねた。

「…速水さん…速水さん…速水さん…」

小さな声でマヤが幾度も幾度も真澄を呼ぶ。答えることも遮ることもできないまま、真澄はマヤの声を一心に聴いていた。どんな愛の言葉よりも、ただ名前を呼ばれることが、こんなにも心を揺さぶる。会えない切なさと溢れるほどの愛しさ、ひとりでは持ちきれないほどの想いが一気に突き上げる。

「…ごめんなさい」

はっとしたときには電話は切れていた。呆然としたまま電話を見つめる。
“ごめんなさい”、だと…?
きーんと耳鳴りがする。
あれは、ふたりが会うようになって間もない頃だった。真澄はいつも“すまない”と繰り返していた。あまり会えないこと、会っても時間が限られていること、ふたりの関係を隠さなければならないこと、嘘を吐かせていること、何も約束できないこと…すべて自分のせいだった。
あるとき、マヤは言ったのだった。謝らないで、と。真澄といることを選んだのは自分なのだから、勝手に加害者になるのはずるい、と。それでも真澄は心の中で謝り続けてきた。きっとマヤも心の中で謝り続けてきたに違いない。
あの雨の晩にふたりが落ちた穴は、底が見えないほど深く、暗かった。どちらが悪いとか、誰の責任かを指摘すること自体が不可能だった。抗えない波に呑まれて、ただただ流されるしかなかった。それでも、ふたりは何とかやってきた。共犯関係というのが一番近いのかもしれなかった。どちらが被害者でもなければ加害者でもない。ふたりで犯した罪をふたりで背負ってきた。だから、絶対に謝らない。
“ごめんなさい”は、“さようなら”なのだ…。               



2003.08.10



…to be continued

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