月が見えない夜は 6
written by lapin
なぜだ?やっとここまで来れたのに。晴れて迎えに行ける日はすぐそこまで来ているのに。

「真澄様、大変です」

水城がノックもせずに入ってくる。極めて珍しいことだった。

「北島マヤのマネージャーから、たった今連絡がありました。明日からの仕事復帰の件でどうしても連絡がとれないのでマンションに行ったところ、もぬけの殻だったとのことです。携帯の留守電にマヤちゃんからのメッセージが入っていたそうです。『ごめんなさい。しばらくお休みさせてください』と。いかが致しましょうか?」

やはりそうか。マヤは、どこか遠くに行く気だ。何があってそんな決意を固めたのかはわからない。でも、仕事までほっぽり出すということはよほどのことだ。さっきの言葉も本気だ。マヤは本気で自分と別れようとしている。
ぐっと拳を握り締めると、真澄は水城に向き直った。

「北島マヤの今後のスケジュールはすべて白紙に戻せ。体調を崩して休養中ということで通すんだ。…そうだ。マヤのボディーガードはどうしている?」

暗く激しい眼差しで自分を睨み付けた若い男を思い出す。真澄には羨ましいほど、まっすぐで純粋なあの男。

「それが…霧島カイルとも一切連絡がつきません。マヤちゃんと一緒ではないでしょうか?」

嫌な感じがする。ぎりりと歯軋りをしながら、真澄は対応策を思い巡らせる。
その瞬間、携帯が鳴る。ワンコールで取ると、着信画面も確かめずに真澄は口を開いた。

「マヤ?!」

電話の向こうで一瞬の間があった。

「…真澄様、私です。紫織です」

失言を取り繕う気もなかった。もうどうでもよくなっていた。

「あなたに大事なお話がありますの。これから私が言う場所に来ていただけますかしら?お待ちしていますわ」

「…わかりました。ちょうどいい。僕もあなたに話があります」

メモを取ると、電話を切る。その瞬間、電話がまた鳴る。

「速水だが」

耳を傾ける真澄の顔が、見る見る強張っていった。







湾岸沿いの倉庫が立ち並ぶ一角に、ハイヒールの音がコツコツと響く。明るい街灯の下を通り抜け、倉庫の脇の暗がりに入ると、足音が止む。

「遅かったですね」

ちらりと時計に目を遣りながら、男が言う。紫織は無言で銀色の物体を差し出す。それを黒い皮手袋をした手が奪うように取り上げる。

「ふたりは来るんでしょうね」

紫織に鋭い一瞥を投げながら、男は携帯を胸ポケットにしまう。

「…ええ、必ず参りますわ」

緊張で強張った顔を見せながら、両手を強く組んでいる紫織から視線を外すと、男は時計に目を戻す。

「どうやら、おひとりは時間通りお越しくださったらしい…では、ショーの始まりと参りましょうか」

舞台の上に現れた役者のように、眩しいライトの下に真澄が姿を見せる。辺りを見回す。

「こちらですよ。お久しぶりです。すっかり見違えましたよ、速水社長、いや、速水総帥とお呼びするべきかな…ずいぶん偉くなったもんだな、藤村真澄」

男は暗がりの中から一歩踏み出すと、真澄を見据えながらサングラスを外した。激しい感情が瞳を黒く燃え上がらせている。真澄は男と向き合うと、冷然とした眼差しで見つめ返す。眉ひとつ動かさない。

「ずいぶん余裕があるんだな。おまえに俺がわかるか?」

男の言葉に真澄が口を開く。

「ああ。思い出したよ。すっかり忘れていたが」

無感動な真澄の口ぶりに、男は顔を紅潮させる。周囲に目を走らせる。

「誰を探しているのか知らないが、マヤならここには来ない」

「なん…だと」

男の右手が懐に飛び込み、真澄が「紫織さん、伏せろ」と鋭く叫んだのと同時に、カチリと小さな音が響く。男は、背中に当たる固い感触に動きを止める。

「手を上げていただきましょうか」

男の背中に銃口を当てたまま、聖は静かにそう言った。

「…裏切ったな、あんた。覚えていろよ。あれは脅しなんかじゃない。真澄、おまえの奥方殿が何をしているか知ってるのか」

男は両手を上げたまま、歪んだ顔を紫織に向ける。

「奥方などではございませんわ」

屈辱と憎悪でどす黒く変色した顔に無関心な一瞥を投げると、紫織は真澄を見る。視線が交わる。長い一瞬。真澄が静かに頭を垂れる。

「では、私はこれで。ごきげんよう」

ライトの下ですれ違うとき、正面を向いたまま真澄にだけ聞こえる声で紫織は囁く。

「私とのお約束、必ずお守りになって」

遠ざかるハイヒールの音が、闇に吸い込まれていく。再び静寂が戻る。
カチッとライターを付ける音が響く。

「そろそろ聞かせてもらおうか。なぜ、こんなことをした、樋口」

タバコの煙が夜空に昇っていく。

「樋口、か。俺にはちゃんと名前もあるんだがな、真澄。俺たちは半ズボンを履いていた頃からの間柄だろう」

真澄が眉を顰める。

「何が言いたい?」

ハッと樋口は自嘲的な笑いを上げる。

「おまえは昔からそうだった。気づいていないのか、気づかない振りをしているのか。 初めておまえに会った頃、おまえは速水家の使用人の子の分際で、みんなの人気者だったよな。勉強でも運動でも何でもできて、人望も篤かった。やがて、おまえの苗字が変わり、おまえはそれまで遊んでいた連中から離れていった。金持ちの仲間入りまでして、これで本当に何でも持っている奴になったんだと思ったよ。だから、中学で再会したときは驚いた。おまえはもうみんなの人気者なんかじゃなかったし、あの忌々しい笑顔を浮かべなくなっていた。友達くらいにはなれるかと、思った。なあ、おまえ俺に何て言ったか覚えているか。いつも放課後になるとまっすぐ帰るおまえを捕まえて、どうしてそんなに急ぐのかと俺が訊いたとき。おまえはこう言ったんだよ。『おまえには関係ない。いちいち口出ししないでくれ。俺はおまえに興味がない』」

真澄は呆然と樋口を見つめていた。
20年以上前のことを引き摺っているのか?しかも、そんな些細な。
速水の家に入って、自分がどんな苦労をしたかなんて、この男にはどうだっていいのだ。ただ、自分の表の顔を見て、勝手に決め付けて、わけのわからない感情を振り回している。

「…俺はがむしゃらにやってきたよ。勉強だってビジネスだって。おまえから見れば笑ってしまうようなボロ事務所かもしれないが、一応成功もした。でも、俺の前には常におまえがいる。速水。樋口。なぜ、おまえなんだ?いつだって前にいるのはおまえの方なんだ」

樋口は言葉を切ると、真澄を見つめた。暗く、沈んだ瞳の奥に、ゆらゆらと燃えるものを覗かせる。

「おまえは俺のことなんか忘れていると思ったよ。思い出してもらえて、うれしいよ」

「いや、調べさせるまでは見当もつかなかった。たぶん、こうしておまえに会っても、思い出せなかっただろう」

真澄の言葉はナイフのように鋭く、冷たい。

「そうか。調べていたのか」

樋口は穏やかな声で言った。

「ああ。あの脅迫状は俺に宛てたものだったんだろう?」

樋口は一瞬笑顔を見せた。

「俺がかつて紫のバラを贈っていたことを知っている人間の犯行だとすぐにわかった。あのメッセージは引用だろう?マヤの過去を嗅ぎ回っている人間を全員洗い出したよ。おまえのところでは一切そういう依頼は引き受けていなかった。そのときに樋口仁という名前も見ていたはずだが、素通りしたんだろう」

「うちでは大都絡みの仕事はやらないことにしていた。だから、うちにボディーガードを斡旋するように頼んできたんだろう?」

「そうだ。おまえはブラックリストには載っていなかった。狙い通りというわけか」

「まあな。あの奥方殿さえよろめかなかったら、と思うよ。おまえは実に女によくもてる…」

樋口が軽口を叩き終わる前に、背中の銃口がギリギリと押し当てられる。一瞬にして色を失った樋口の背後で、聖は冷静に樋口の命を弄ぶ。

「なぜ、マヤだったんだ?俺に脅迫状を送るくらいなら、なぜ俺に向かって来なかった?」

真澄の目は、強く鋭い光を浮かべて樋口を射る。

「おまえを本気にしたかった。他の手段ではおまえは本気にならないとわかっていたから。なあ…そんなにあの女がいいのか?おまえは何でも持っている。金、地位、権力、人が羨む将来、美人でおまえにベタ惚れの女房まで。なぜ、危険を犯す?あの女のためにそこまでする?なぜなんだ?!」

話しているうちにだんだん興奮する樋口に、真澄は訝しげな表情を浮かべる。聖は、黙ってますます銃口を押し付ける。

「危険など犯していない。おまえが並べたようなものを失うことは、怖くない。何ならいつでもくれてやる。もっとも、おまえにそれを受け取るだけの覚悟があればの話だがな。俺が恐れているのは…」

真澄は言いかけて口を噤む。強く拳を握り締める。

「樋口。おまえが押したスイッチはどうやら解除不可だったらしい。俺は取引するつもりはない。おまえの戯言に付き合ったのは、理由が知りたかったからだ。おまえがどうなろうと俺は一切関知しない。おまえには、興味がない」

背を向けて行きかける真澄に、樋口は絶望的な叫びを上げる。

「おい、待て!真澄!俺はしゃべるぞ。おまえとあの女のことも、おまえの奥方殿とのことも…」

振り向いた真澄の全身から、氷のように冷たい炎が立ち昇る。樋口は言葉を失って真澄を見つめる。

「おまえの話を聴く者はひとりもいない。信じる者もいない。嘘だと思うなら試してみればいい。マスコミでもどこでも、好きなところに行くがいい。ただし、明日はないと思え」

低い声でそれだけ言い切ると、真澄はライトの下を通って闇の中に消える。

「さて、私たちもそろそろ帰りましょうか。私とあなたは気が合いそうだ」

背後から響いた声は、不気味なほど穏やかだった。樋口の背をゆっくりと冷たいものが伝う。







小さな窓から、斜めに傾いた街の灯が一面に見える。どんどん高度が上がっていく。慣れた浮遊感がふわりと体を包み込み、心が宙に投げ出される。

マヤ。マヤ。マヤ。

真空になった心に、その名前だけがいつまでも木霊する。
月明かりが射し込む部屋で、シーツにくるまったままベッドの上にうずくまるマヤ。こちらを見上げる顔は、まだ眠りを引きずっていて、ぼんやりと焦点の定まらない瞳が美しい。状況が飲み込めてくるにしたがって、マヤの顔が静かになっていく。寂しそうな表情ではない。ただ淡々と事実を見つめる静かな表情。その顔を見た瞬間、すべてを投げ出して、ただただ側にいたいと思う。彼女のためだけではない。自分のために。心臓を抉られるような痛みを感じながら、ワイシャツをはおり、ネクタイを結ぶ。これほど辛いことはこの世にないと思いながら、手は何百回となく繰り返してきた動作をひとつひとつ勝手に模倣している…
社の廊下やパーティー会場ですれ違う瞬間、いつも時間が止まる。おそらくそれは一瞬のことで、周囲の人間が気づいた様子はない。でも、その瞬間、時間は確かに止まる。いつも何を求めて視線が動いているのかを知る。そのたびに知る。毎回毎回新しい。すべてのキスが初めてのキスであるように。抱き合うたびに新たに生まれてくるように。
なぜ、気づいてやれなかったのだろう。
青木麗からかかってきた電話は、あまりに辛い内容で、遮らずに聴き通すだけでやっとだった。どれほどマヤを追い詰めていたのかを考えると、胸が潰れるような気がする。笑顔の下で壊れていくものの存在にあまりに無頓着だった。安心させてやらなかった。約束ひとつしなかった。自分の中では未来の約束などではなかった。必ず実現させてみせる、現在と同じくらい確かな現実だった。でも、マヤは不安と戦い、孤独に耐えていたのだ。希望もないまま、ひとりで。

どれだけ自分は周囲を傷つけてきたのだろう。

「あなたに見ていただきたいものがありますの」

固い表情でそう言うと、彼女はテーブルの上に茶封筒を載せた。

「マヤに関する調査書ですか」

はっと息を呑むと、彼女は目を伏せた。

「…ご存知でしたのね、真澄様」

「…ええ。ちょっとした調査をしていましてね、その過程であなたにぶつかった」

「そうですの…さぞかし、私を軽蔑していらっしゃるでしょうね」

自嘲的な声音に驚いて彼女を見つめると、そこには苦悩に暗く染まった横顔があった。

「私のせいですの。あの方があんなことになったのは、すべて私のせいですの」

そう言うと、彼女は一連の出来事をすべて打ち明けた。

「私は、ただずっとあのままでいたかったのですわ。あなたとマヤさんのことは、見て見ぬ振りで通すつもりでいました。あなたが帰ってきてくださるなら、それでよかったのです」

信じられなかった。あの気位が高く、マヤを傷つけるために手段を選ばなかった人とは思えなかった。肩を落として震えながら、絞り出すように自分の本当の気持ちを語っている。今まで、どれほど酷いことをしてきたかを悟る。一度も向き合ったことはなかったが、いつも隣にいたのは彼女だった。心をなくして、ただの容器と化した自分の傍らで、この人はひとりでずっとどんな思いでいたのだろう。

「…申し訳ありません。すべて、僕の…」

「やめて」

強い口調だった。弾かれたように顔を上げる。

「私は自分の過ちを正したいのです。これは、私の問題です」

さっきまで肩を落として震えていたのが嘘のように、彼女は背筋を伸ばし、顎を引いて、強い意志が漲る眼差しでこちらを見つめている。言いかけた言葉が唇の上で凍りついたまま、消えていった。

「…この度は、誠におめでとう存じます」

彼女は丁寧に頭を下げた。次々と思いがけない態度をとる彼女に、どう反応していいかわからない。戸惑いが顔に出ていたのだろう。彼女はふっと微笑んだ。

「聞きましたわ。昇進されますのね、明日。これは私からのお祝い」

そう言うと、ハンドバッグから白い封筒を出す。ちらりと中味をあらためて、愕然とする。

「私は大都芸能の速水真澄の妻でしたけれど、大都グループの総帥の妻は私ではありませんわね」

「紫織さん…」

「もう、いいのです。階段を降りるのはもうたくさん…最後にひとつだけ、私にお約束してくださいませ、真澄様。もう、ご自分のお気持ちを誤魔化さないと。紫織にお約束してくださいませ」

目に涙をいっぱいに湛えながら、意地でもこぼすまいとしている。美しかった。こんな自分に、これほど美しいものを見る資格はないと思うほど、美しかった。

「…お約束します」







Blue Moon, you saw me standing alone
Without a dream in my heart
Without a love of my own

「あ、この曲…」

思わず小さく口に出してしまう。控えめなボリュームで静かに音楽が流れていた。男の夢の中に現れた歌姫が歌うはずだった曲。結局、歌えなかった。
応える相手はいない。先ほど雨が降り出したとき、カイルは顔見知りになったマスターに軽く声をかけてマヤを頼むと、傘を買いに出てしまった。
2年前と同じ雨を、同じ場所で聴いている。でも、あの人はもういない。

消毒液の臭いがつんと漂う部屋で横たわりながら、マヤは決意したのだった。神様が一度でも許してくれるなら、あの人を諦めると。いつまでも続くはずはなかったのだ。いつかは決断をしなくてはいけなかった…それは、今なのかもしれない。
会ってしまえば、どんな決意も見る見る崩れてしまうのはわかっていた。だから、会わなかった。電話を切った後で、崩れるようにその場にしゃがみこみ、血を吐くような呻きと嗚咽が交互に襲ってくるのに必死で耐えた。心がバラバラになりそうだった。虚ろな目で、目の前のアスファルトに眩しく反射している夏の光を見ていた。踊るような光の動き。手を伸ばしてみた。きれいだった。
その瞬間、そっと肩に置かれた手は、とても大きく、頼もしかった。
どこか遠くへ行きましょう、あなたを傷つけるものが何もない場所へ、私があなたを守ります、いつまでも。
目を閉じて、その声の響きに身を預けた。

諦めるなら、こんなところに来ていてはいけない。頭ではわかっていた。でも、心が向かった先はここだった。何日目になるだろう。一日に一回、夕方の早い時間にカイルとふたりで立ち寄る。開店直後のバーは、すべてが新しくて少し余所余所しく、それが空っぽの胸に心地いい。夕闇が降りて、他の客が来始める頃には店を出る。目を上げると、正面の大きな窓の向こうで、雨に覆い被さるように夕闇が降り始めていた。そろそろだ。また、長い長い夜が始まる。
日が高いうちはまだいい。困るのは夜だった。月があれば、月を眺める。月が見えない夜は、ひとりで闇をじっと見つめる。じりじりと時間が過ぎていくのを待つ。やがて、幻影が押し寄せてくる。

東京の部屋のベッドの上で、温まった柔らかいシーツに包まれて、並んで天井を見上げていた。

「困ったな…」

と彼が呟いた。どくんと心臓が脈打つ。不安を抑えるように、明るい声で、どうしたの、と訊いた。彼は黙って体を起こすと、腕をつきながら覗き込んで来た。細められた目の奥から、熱を帯びた視線がゆっくりと絡み付いてくる。

「また、君が欲しくなった…」

欲望で掠れた低い声でそう言うと、彼はまた覆い被さってきた。

どうして、そんなことばかりを思い出すのだろう。
どんな人込みの中でも、必ず目が合った。その瞬間、魔法にかかったように、動くことも呼吸することも忘れて、自分はただ見つめるだけの目となる。それは、どれほど時間が経っても変わらない。いつでも、どこでも探している。今も。

窓ガラスの中の自分と目が合う。うんざりするほど、疲れきった顔をしていた。

カラン。ドアが開く。雨の匂いが流れ込んできた。
ゆっくりと足音が近づいて来る。カイルでは、ない。マヤの体が小刻みに震え始める。いつでも、そうだった。その人と同じ空間にいるだけで、体は勝手に震え出すのだった。息を止めて、背中にひたひたと押し寄せる気配を感じていた。少し離れたところで足音が止まる。恐る恐る顔を上げると、窓ガラスの中で視線がかちりと合った。
魅入られたように、ふたりはガラスの向こうの世界で見つめ合っていた。深まっていく青の上に、透明な雫が幾筋もの細かい線を描き、街の灯がちらちらと揺れている。やがて、真澄がゆっくりと距離を詰める。マヤは、ガラスの向こうから近づいて来る影を呆然と見つめていた。影が手を上げた。次の瞬間、肩に手が置かれたのを感じた。その感触を体に染み込ませるように、目を瞑った。

「会いたかった…」

低い声を耳にした瞬間、理性が崩れていくのを感じる。あと1秒でも待ったら、きっと自分は立ち上がって、振り向いて、その大きな胸に飛び込んで、心の中の想いをすべて吐き出してしまう。どうなってもいい、ずっと一緒にいたい、愛している、と。大きく息を吸うと、声が震えないように意識しながら、口を開く。

「…どうしてここにいるの?日本に、帰って。あたしをひとりにして…」

マヤの瞼は小刻みに震えていた。真澄の指先がそっとマヤの瞼に触れる。それから、額に、頬に、唇に。

「それはできない…」

真澄の指を振り払うことができないまま、マヤはじっと体を強張らせていた。体の奥から湧き上がってくる震えを懸命に抑えようとしていた。

「…どうして?」

マヤの唇がそう動くのを指先で感じながら、真澄はそっと指を離すと、覆い被さるように華奢な体を背後から抱きすくめた。耳元で、はっと息を呑む音がした。

「君は俺をひとりにする気か。俺は君をひとりにはしない。二度と」

眩暈がした。きっとこれは夢だ。

「約束する」

マヤの目から涙が一筋、ゆっくりと頬を伝って流れた。真澄がそっと唇で受ける。

「…だめ。そんなこと言っちゃだめ。速水さん、あたし、決めたの。もう、こんなことしてちゃいけないの。たくさん酷いことした、から。罰を受けるのが当然なの…あたし、神様と約束したから…だから…」

途中まで言いかけた言葉が宙に浮く。ゆっくりと顔を離すと、真澄はマヤの目を見つめた。ガラス越しではない視線に、心が射抜かれたようになる。触れただけの唇が火傷をしたように熱い。

「もう、何も言うな。青木君から、全部聞いた。俺は…本当に…」

真澄は言いかけた言葉を飲むと、苦しげに眉根を寄せた。

「あの人とは別れた。信じられないかもしれないが、向こうから別れようと言ってきた。約束してくれと言われたよ。自分の心に正直に生きることを。だから、俺は君を迎えに来た。それが俺にできる償いだと思っている。俺に償わせてくれないか、一生」

呆然と目を見開いたまま、マヤは真澄を見つめていた。黒い瞳が、心の動揺を表すようにゆらゆらと揺れている。何も答えないマヤに真澄が不安を抑えきれなくなった瞬間、マヤは吸い込まれたように自分の方から唇を近づけた。

Blue Moon, now I'm no longer alone
Without a dream in my heart
Without a love of my own

すっかり闇に包まれた暗い夜空から、雨は無数の銀色の煌めきとなって静かに降り続ける。雨の匂いが甘く立ち込める。雨で月が見えない夜は、あなたの瞳の中に月を探す。

ドアには、一本の傘がそっと立て掛けられていた。               



2003.08.10



<FIN>








□出典□
Fly Me To The Moon(1954)
Words/Music by Bart Howard

It's Only A Paper Moon(1932)
Words by Billy Rose and E.Y.Harburg/ Music by Harold Arlen

Blue Moon(1934)
Words by Lorenz Hart/ Music by Richard Rodgers


それぞれの挿入部のlapinさんによる意訳です。

「そう、あれはただの紙の月
ボール紙の海の上に浮かんでる
でもね、偽物なんかじゃない
あなたがあたしを信じれば」


「要するに、あたしをずっと好きでいて
つまり、あたしはあなたを愛してる」


「青い月が見てた
ひとりぼっちだった
夢もなく
愛する人もいなかった私

青い月が見てる
でも、もうひとりぼっちじゃない
夢もなく
愛する人もいなかった私はもういない」






□lapinさんより□
ここまで読んでくださった寛大な皆様、本当にありがとうございます。 懲りずにまた出て参りました、lapinでございます。
先に謝っておきます。な、長いです。しかも、話が破綻している気がします。 サスペンス要素が中途半端に入っているせいで、変なことになってます。
自分でもよくわからないものを書いてしまいました。甘甘でもせつない 系でもなく、もちろん地下物でもないです。新ジャンル奥様系と呼びたいものの、 だいぶエロが足りないしなあ。
いきなり語り手があなた誰?状態で、肝心のふたりがほとんど一緒に出てこない 邪道ガラパロ、どうか笑って流してくださいませ。
お粗末さまでしたっ。






□杏子より□
ヤボ用でlapinさんにメルした際、
”あ、そういえば祭なんてもん、やるんですけどぉ、よかったらlapinさんも納菌なさいませんかぁ?”
と、院長が揉み手で近づきましたところ、
”もう書いてますが何か?原稿用紙、すでに90枚いってますが、何か?まだまだ、終わりそうもないんですが何かっ?”
(うそうそ、こんなお下品じゃなかったよ)
と言われ、くら〜〜〜っと立ちくらみ院長でございました。
前回のデビュー作”追憶”に引き続き、大巨編でございました。切なく、けなげで大人なマヤちゃん、抱きしめてあげたくなります。
ノリノリのlapinさん、どうやら今年の夏はパロ書きに明け暮れるそうでございます。(勝手に他人の地雷を踏む、院長♪)
lapinさん、本当にお疲れ様でした。
あなたには、黒背景が似合うわ〜〜!








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