夜の魔法
written by lapin
帰宅したのはちょうど深夜を回った頃だった。
映画の撮影が終了し、その打ち上げに参加した帰りだった。半年以上に及ぶ撮影が終わり、スタッフもキャストも達成感と昂揚感に包まれた晩だった。すっかり仲良くなり、家族のように思っていた人たちと別れるのは寂しかった。抱き合い、写真を撮り、連絡先を教え合った。でも、たぶん電話をかけることはない。かかってくることもないのだろう。
いつでもそうだった。

自分が孤独なのかと言えば、正直、よくわからない。
時々、人恋しくなることはある。でも、仕事場に行けば、その寂しさはたちまち消えた。
紅天女に選ばれたときから、仕事には不足しなくなった。それはとてもありがたいことだと思う。仕事がなくなったら、私はたぶん途方に暮れてしまう。何もすることが浮かばない。舞台に立ち、演じることが私の人生のすべてなのだから。

試演から5年。私の生活は大きく変わった。有名になることがこれほどすごいことだとは思わなかった。
よくも悪しくも、知名度がものをいう世界に私はいる。ひとつの成功が別の成功を呼び、気づくと私は日本を代表する有名女優になっていた。外を歩けばサインを求められ、初めて入った店でもVIP扱いをされる。それに伴い、行動の制限も厳しくなった。移動には事務所の車を使い、セキュリティがしっかりしたマンションに引っ越した。誰とどういう風に付き合うかにも神経を使わなければならなくなった。共演者と食事に行ったくらいで熱愛と騒がれ、現場でトラブルがあれば、あることないこと書き立てられて、身に覚えのないことで責められた。マスコミと呼ばれる人々のひと通りの洗礼は受けたと思う。
26歳。目下、彼らが書きたてているのは私の結婚が秒読みだという話で、もちろんそれは根も葉もない噂にすぎない。私には恋人すらいないのだから、結婚も何もない。
今までで一番結婚に近づいたのは23歳のときだ。相手は紅天女の相手役を務めている桜小路優だ。彼は私に本気で向かって来てくれた。私を愛し、助けようとしてくれた。決して叶わない恋に迷い、傷つき、出口を見つけられずにいた私に、彼は手を差し伸べてくれた。共演者としても、ひとりの男性としても。私は舞台の上でも他の人を見ていた。恋を語る台詞をしゃべっていると、ひとりでに想いは溢れた。そんな私に、苛つき、傷つきながらも、彼は決して逃げなかった。少しずつではあったが、私は彼に心を開き始めた。彼の視線にときめき、彼の一真に恋するようになった。身を焦がすほどの恋は、昇華され、役の心として舞台の上に居場所を見つけた。絶望的な想いを抱えていても、舞台の上にいるのは私ではなく、阿古夜だった。私は紅天女になれたのだった。正式に選ばれ、本公演をこなすようになってから、桜小路と真剣に付き合い始めた。彼に恋愛感情を抱けそうな気がしていた。いや、抱かなければならない、と思っていた。ちょうどその頃、私の命がけの恋は終焉を迎えていたから。
私が初めて愛した人は、本公演が始まる直前に結婚していた。この世が終わるような悲しみと辛さに、私は毎晩泣き、日が昇ってから真っ赤に腫れた目で稽古に行っては黒沼先生に叱り飛ばされた。そんなときに桜小路に付き合いを申し込まれたのだった。一緒にいるのは楽しかった。気心が知れていたし、安心できた。私の心がまだ他の誰かに残っていること、それを私が乗り越えようとしていることを知ったうえで、彼は包み込んでくれた。待っていてくれた。そんなふうに1年以上付き合った。世間では私たちが結婚を前提に真剣な付き合いをしていると考えていたし、それは大筋では当たっていた。ただ、大事なことが抜け落ちていた。私は桜小路と友達以上の関係を結べずにいたのだ。なぜかわからなかった。直前まで行ったことは幾度もあった。でも、いざそのときになると、私はどうしても彼を受け入れることができなかった。彼が傷つき、戸惑っているのがよくわかった。私も自分に腹が立ち、同じくらい戸惑っていた。今ならわかる。私は桜小路を愛していなかった。辛い恋からの避難場所として感謝し、大事にしていただけだった。その証拠に、私は失恋した相手の名前すら打ち明けていなかった。紫のバラの人が誰なのか、実はその正体をとうに知っていたことを告げなかった。桜小路が離れて行ったのは当然だった。
あれから3年。好きになれそうな気がする相手すら現れないまま、私は26歳になった。仕事は乗りに乗っている。不思議なもので、私生活が味気ないものになればなるほど、女優の私は輝きを増していった。そうやってバランスをとっているのかもしれない。恋の演技も絶賛されるようになった。いまだに胸の奥で燻り続けている古い恋は、役に投影されるときにだけ息を吹き返せるのだった。私は夢中で恋をする。現実にしてみたかったことを舞台の上ですべて行おうとするように刹那に賭ける。観客は私を忘れなかった。
恋多き演技派女優。これが私の世間的なイメージだ。実際には、恋人ひとりいない地味で寂しい女だ。

夜の電車が好きだ。
本当は事務所から止められているのだが、時々こっそりと乗ってみる。素顔の私は平均以上に地味なので、注目される可能性は他のタレントよりだいぶ低い。それに、私には秘策がある。誰にも注目されない、地味でその他大勢な女を演じるのだ。背景に溶け込むように気配を消し、文庫本を眺めたり、つり革につかまってぼんやりしたりする。オーラがない人間は本当に見事に無視される。面白くなるほどに。透明人間になったような気分だ。
今からなら終電に間に合うかもしれない。都心に向かう電車ならきっとがらがらだろう。思い立つと、すぐに実行したくなった。この前の舞台で使った小道具の眼鏡と帽子を持って家を飛び出した。

夏の夜は、いつもどこかせつない。むっとするほど立ち込めていた暑気が和らいで、空気が軽くなっている。どこまでも夜が続いているような気がする。闇の奥に目を凝らすと、何かが見えそうだ。頭の芯が冴えて、心の奥で眠っていたことまでぽんと手の中に落ちてきそうに思える。

ぎりぎりで最終に乗れた。思ったとおり、がらがらだった。人がいないことをいいことに、座席の上に膝を立てて座り、窓枠にしがみつくように外を眺めた。額を押し付けるようにすると、外が見える。滑るように走り去っていくレール、飛び去る電線。無人のホームに灯りが灯っていて美しい。途中の大きな駅で、同じ車両の人は全員降りてしまったようだった。確かに、今から都心に向かうのは珍しいだろう。私も、帰りはタクシーで帰るしかない。電車に乗るためだけに電車に乗るような人はとても少ないのかもしれない。そう思いながら、窓ガラスからちょっと額を離したとき、鏡に早変わりした窓ガラスに人影が映ったような気がした。
まさか。もう、誰もいないはずなのに。幽霊だろうか。
一瞬そう思った。振り向いて誰もいないと怖いので、もう一度窓ガラスを覗いた。思わず声を上げていた。

「速水さん!?」

そう叫んで振り返ると、後ろの座席に腰掛けて、こちらを見ていた相手とまともに向き合う。

「チビちゃん、子供みたいな真似して何やってるんだ?」

からかいを含んだ瞳が、面白げにこちらを見ている。

「何やってるんですかっ。電車なんか乗って」

動揺を隠すように大声で答えると、彼は一瞬呆気にとられたような顔をしてから爆笑した。

「君だって電車に乗っているじゃないか。人のこと言えるのか?」

もっともな言葉に一瞬詰まりながら、必死で言い返す。

「でも、速水さんは社長さんでしょ」

「君だって売れっ子女優だろう」

返答に困って黙って睨みつけていると、彼は優しげに瞳を細めた。

「君とこうやって話すのも久しぶりだな。元気そうでよかった」

急に優しくされるとどうしていいかわからなくなる。軽口の応酬の方が気楽だと思った。

「速水さんも…元気そうですね」

改めて彼を見る。こんなに暑いのに、スーツをびしっと着こなしている。しかも、少しも暑そうではない。むしろ、涼しげでさえある。何も持たずに電車に乗っているようだった。

「速水さん、どうして電車に乗ってるんですか?」

彼は電車で移動するような人じゃない。

「君こそどうして電車に乗ってるんだ?」

「もう、私が先に訊いたんですからねっ」

「訊く方から答えるのが礼儀じゃないのか?」

また、子供の喧嘩みたいになってしまった。

「わかりましたっ。答えればいいんでしょ。あたしが電車に乗ったのは…乗りたかったからです」

何となく予想がついていたが、案の定、彼が笑い出す。

「乗りたくないのに乗る奴はいないだろうな。しかし、君は本当に素直だな、チビちゃん」

また馬鹿にされた。ぷうと膨れてみせるが、本当は怒ってなんかいない。さっきからどきどきして仕方がなかった。夢みたいだと思った。こうやって、ふたりきりで周囲を気にすることなく話ができているなんて。何年ぶりだろう。

「君とこうして話をするのはいつ以来だろうな」

私の気持ちを見透かしたように彼が言う。

「さあ。覚えてないです。速水さんが大都芸能やめて以来じゃないですか?」

彼は紅天女を上演して間もなく、大都グループ内の別の会社に異動していた。

「そうか…そうだな。でも、君の舞台はかかさず見ているぞ。忙しそうだから楽屋には邪魔していないが」

気づいていた。彼は初日に必ず来てくれた。楽日には花が届いた。でも、それは紫のバラではない。

「はい、いつもありがとうございます」

彼が驚いたように目を開いた。

「ほう…いつの間にか大人になったな。あのチビちゃんが俺に礼を言うなんて」

本当はもっと他のことについてお礼を言いたかった。紫のバラをくれたこと、今まで励ましてくれたこと、厳しいことも言われたけれど、全部私のためになったこと…。

「そういう言い方やめてください。あたし、もう26ですよ?大人なのは当たり前でしょ」

どうせまたからかわれると思いながらそう言うと、彼は予想外に真面目な顔でこちらを見ていた。

「そうだな…すまなかった。君はもう大人だ。立派な女優だ」

猛烈に照れ臭い気持ちと、少し寂しい気持ちが胸の中で混ざっている。やっぱり、私は女優でしかないのか。わかっていたことでも、確認すると切なくなる。

「あたし、今度椿姫やるんです。絶対成功させますから、観に来てくださいね、速水さん」

寂しさを振り払うように明るく言う。

「そうか、椿姫か。なつかしいな」

ひょっとして初めて私と会ったときのことを覚えているのだろうか。まさか、とすぐに思う。きっと、大都芸能にいた頃がなつかしいのだ。

「ヴィオレッタ。悲劇のヒロインじゃないか。君のイメージにぴったりだな」

すぐそんなことを言う。

「はい。あたしもそう思います」

そう答えると、彼は楽しそうに笑った。

「必ず行くよ。お土産はやっぱり椿かな?」

いいえ、紫のバラをください。あたしのことを忘れていないってこと、あなたに見せてほしいんです。好きになってなんて言いません。でも、あたしを忘れないで。

「ええー芸がないですよ、それ」

「はは。手厳しいな。わかった。何か考えておくよ」

そう言って、いつも私をどきっとさせる優しい笑顔を浮かべると、彼は立ち上がった。

「俺はここで降りるよ。チビちゃん、君も遅くならないうちに帰りなさい。ちゃんとタクシーを拾うんだぞ」

電車が止まる。彼は手を振りながら降りて行った。私も電車の中から手を振った。後姿が遠ざかっていく。
行ってしまう。嫌だ。
気づくと、閉まりかけた電車の扉の間をすり抜けるようにして飛び出していた。急いで追いかける。影は改札の方に向かっていく。電灯が消えた、暗がりの中を通った瞬間、見失った。でも、改札を通らないと駅の外には出られない。全速力で改札まで走った。駅員さんが駅を閉める準備をしていた。

「お客さん、急いでくださいよ。おたくが最後なんだから」

中年の駅員さんに文句を言われる。

「あの、背が高くて、スーツをびしっと着た30代後半くらいの男の人が通りませんでしたか?」

「は?それいつのこと?今の電車で降りたのはお客さんだけだよ」

体から力が抜けていくのを感じた。

「あの、改札はここだけですよね?」

シャッターを下ろす準備をしていた駅員さんは面倒臭そうに振り返った。

「そうだよ。さあ、早く出て。あんたももう帰んなさい」

ふらふらと駅を出ると、近くにあったベンチに腰を下ろした。
あれは何だったのだろう。
夢?
幻?
まさか、本当に幽霊?速水さん死んでないよね?
馬鹿げているとは思いつつ、急に不安になった。
きっと打ち上げで思ったより飲んでいたのだ。それで、電車の中で居眠りしてしまって、都合のいい夢を見た。そう考えるのが一番まともだった。幻だとしたら、延々と会話を交わした自分は相当重症だということになる。そう、夢。あれは夢。
帰って寝れば元に戻るはずだ。タクシーが客待ちしている列の先頭に行って、乗り込んだ。

「すいません、あの…赤坂の交差点まで」

家と逆方向を言っていた。赤坂には大都物産のビルがある。彼の、会社がある。もう2時近いし、行ったところで入れるとも思えなかった。でも、赤坂と口に出した瞬間、わかった。
私は家になんて帰りたくない。彼に会いたい。実際に会えないとしても、彼に会いに行きたい。それ以外のことは何もしたくない。ずっと、会いたかった。気づかない振りをしてただけ。
今でも、私は彼を死ぬほど好きなのだ。

ビルの前でタクシーを降りると、ゆっくりと玄関に近づく。思ったとおり、真っ暗だった。非常階段も試してみたが、鍵がかかっていた。少し離れてビル全体を見上げたが、灯りはついていなかった。
やっぱりいないか。もうこんな時間だし。なんだかんだ言って、酔っているのかもしれない。電車の中で夢を見たくらいでここまで真夜中にタクシーを飛ばしてくるなんて。今度こそ帰ろう。明日、水城さんに連絡して椿姫のチケットを渡してもらおう。
そう思いながら、大通りに向かって歩き出した瞬間、背後でがちゃっという音がした。誰かが非常階段から出てきたようだった。

「マヤ…?」

聞き慣れた低い声。体がかたかたと震え出す。

「こんなところで何やってるんだ?」

声がゆっくりと近づいて来る。覚悟を決めてばっと振り向くと、彼が立っていた。さっき電車の中で見たとおりの格好をしていた。ただし、ブリーフケースを手に提げている。

「速水さんっ。生きてたんですね!あー、よかった」

思わずスーツの襟を?むと、彼の胸に頭を押し付けた。ブリーフケースが地面に置かれる気配がする。一瞬後、戸惑ったように大きな手の平が恐る恐る背中に置かれた。

「生きているが、いったいどういうことなんだ?」

顔を上げると、訝しげな視線にぶつかる。急に恥ずかしくなる。

「えっと、あのですね、さっき夢を見たんです。うん、たぶん夢だったと思う。それで、その夢の中であたしは…」

「電車に乗っていたんだろう?」

「ええっ。何でそれを…」

息が止まるほどびっくりして彼を見上げると、彼は遠くを見つめているような、どこかぼんやりとした表情を浮かべていた。

「椿姫には招待してくれるんだろう?俺は本気で楽しみにしてるんだが」

「えっ、それはもちろん構いませんけど。でも、どうして?あれ、夢じゃなかったってこと?あたし、本当に速水さんと電車乗ってたの?でも、速水さん消えちゃったじゃない」

彼はそっと私の肩に手を乗せると、顔を覗き込むように視線を合わせてきた。

「現実だったら、俺は君を残してひとりで電車を降りたりしない」

「ってことは…」

「目が覚めたんだ。惜しいことをしたと思ったよ」

「えー、じゃあ、同じ夢を見てたんですか?」

「どうやらそうみたいだな」

彼はくすっと笑うと、興奮のあまり乱れていた私の髪をそっと直してくれた。

「夢から覚めたと思ったら、こうして君が会いに来てくれていた。これも夢の続きなのか?」

「わからないです、あたしも。会えなくてもいいから、少しでも速水さんの近くに行きたいと思ってたら速水さんが本当に現れたから」

やっぱり酔っ払ってるかもしれない。こんなことを口に出すなんて。きっと後で死ぬほど後悔する、と思いながら足元を見ていると、頭の上から声が降ってきた。

「…確かめたいと思わないか。これが夢かどうかを」

へっと顔を上げると、彼は熱を帯びた真剣な顔でこちらを見下ろしていた。急に心臓がどきどきしてくる。

「お、思いますけど。でも…」

言いかけた言葉が吸い込まれたように消えていく。キス、している、らしい。

「…速水さん、何するんですか…」

「ずいぶん元気がない声だな。夢の中とは大違いだ」

「もうっ。そうやっていつまでもひとりで余裕ぶってればいいでしょ。もう、知らない。帰りますっ」

そう言って急いで逃げ出そうとすると、後ろから腕を掴まれる。ぐいっと引っ張られて、胸の中に閉じ込められる。息ができないほどきつく抱き締められていた。

「夢なんかじゃない。これが現実なんだ」

自分に言い聞かせているような声だった。

「なあ、マヤ。これからも現実で一緒に生きていかないか」

それってどういう意味なんだろう。一緒に…。

「結婚してほしい。もちろん、すぐじゃなくてもいい。ただ、考えておいてくれないか」

「…速水さん。寝ぼけてるんですか?結婚してる人がどうやって結婚するんですか?」

焦りを隠すためにそんなことを言ってみる。信じられなかった。結婚…。第一、紫織さんはどうなるのだろう。

「ああ、まだ公表してなかったんだな。俺と紫織さんは結婚してから2年足らずで別居を始めて、最近正式に離婚したんだ」

結婚して2年。ちょうど桜小路とだめになった頃だ。同じ頃に彼も紫織さんとだめになっていたなんて。

「原因は、紫織さんが俺に愛想を尽かしたためだ。誰かさんが結婚秒読み段階で破局したせいで、俺が動揺してしまったんだ」

「えっ、それって、ひょっとして…」

彼がいたずらっぽく微笑む。

「そうだ。君のことだ。責任をとってくれないか」

「何ですか、責任って」

わざと怒ったように言って彼を見上げると、予想外に切なそうな眼差しにぶつかる。

「ずっと諦めようと思っていた。叶わない想いだと思っていた。でも、どうしても思い切れそうにない。俺は、君を愛している」

「あたしも、あなたを愛してます」

言葉はすらりと口から出た。今度のキスはちゃんと受け止めることができた。とても幸福な甘いキス。夢でしか触れることができないと思っていた唇は、温かかった。

「あのとき椿姫を観に来ていた少女が椿姫をやるなんて、何だか信じられない」

私を腕に包み込んだまま彼が囁く。

「あれから13年ですよ。あたしはもう大人です。速水さんも立派なおじさんですね」

「ひどいな、君は。でも、いいよ。おじいさんになるまでこうしていられるなら」

幸せすぎて、何だか切ない。胸がぎゅっと痛くなる。

「ねえ、速水さん。椿姫のご褒美だけど、紫のバラがいいな」

彼の腕が強張る。

「気づいていたのか…?」

「うん。忘れられた荒野で賞を獲ったときから」

「…そうか。それで俺のことを…」

「違う!あたし、速水さんがお見合いするって聞いたときすごく悲しかった。たぶん、その前からずっと好きだった。でも、紫のバラの人だって知って、もっともっと好きになった」

彼の腕に力がこもる。

「長い間すれ違っていたんだな。ちっとも気づかなかった」

「でも、こうしてちゃんと出会えたじゃない。あたし、もう速水さんの側を離れないから。後から気が変わったって言っても遅いんだから」

「君こそ、あれは夢でしたって言わないだろうな」

背伸びすると、そっと彼の唇に唇を合わせた。彼は驚いたようだったけど、うれしそうにぎゅっと抱き締めてくれた。

「…ありがとう。歴史に残る君からの最初のキスだ。君のために何でもしてやりたい。どんな望みも叶えてやりたい。今一番何がしたい?」

「うーん。そうねぇ…電車に乗りたい」

彼は呆気にとられた顔をしてから、1秒後に大笑いを始めた。

「わかったわかった。でも、朝になったからにしような。朝までは…」

そこで意味深に言葉を切ると、彼は私を引き寄せて、深く唇を重ねてきたのだった。





2003.08.10



<FIN>














□lapinさんより□
夏らしい小噺をひとつと思いまして、書いてみました。
短いのだってやればできるんだ、明るいのだって頑張れば(そこそこは)書ける んだ、と自分で確認するために書いたような作品です。
祭りの合間の一服の清涼飲料剤にでもなれば、本望でございます。
快く飛び込みを許してくださった杏子さま、いつもいつもありがとうございます。
lapinはあなたさまにどこまでも付いていきます(やっぱりダメですかね?)。






□杏子より□
ホホホホ、lapin嬢のESCAPE祭専用特設50M(水深500m)への飛び込みダイブ作品でございます。
”飛び込み、駆け込み、おっけ〜、おっけ〜、かも〜〜ん♪”
とBBSでメガホンで叫びましたところ、数時間後にはポストにぼっとんされました。
恐ろしい子!lapin!!(あ、久々に使えた)
ちなみに、酔っ払いながら2,3時間で書いたそうです……。
このまま原作が続いたら、一番ありえそうな、チェリーとの一件。いやぁ〜〜、と思いつつも、それがシャチョーへの引き金になったのね。
夏の宵にふさわしい、ちょっとファンタジックな一品、堪能いたしました!








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