暑中お見舞い申し上げます 
illustrated by YOYO
 & written by 杏子
祭囃子の音がする。
遠くの空のほうからゆっくりと夕闇が近づく時刻になったというのに、セミの声は一向に止む気配もしない。
祭はここからそう遠くはない場所なのだろう、笛の音も太鼓の音も、はっきりと耳に届く。
全開に開け放った窓からは、そよとも風は入らない。
バルコニーから下を覗けば、浴衣姿の若い女がカラカラと心地よい下駄の音をさせながら、狭い路地を抜けていくところだった。



ピンポーン

ピンポン、ピンポン、ピンポーーーンっ

こんな落ち着きのないドアフォンを鳴らす人間の存在など、思い当たる節もなく、聖は眉間に皺を寄せたまま、ゆっくりと玄関に向かう。

ピンポン、ピンポン、ピ……

一体、こんな非常識なのはどこの誰なのだ、多少の苛立ちと警戒心を隠すことなく、ドアのスコープを覗いた瞬間、聖の耳からセミの音が消える。
ドアのスコープにきっちり顔をあわせて、至近距離3cmでこちらを覗いていたのは、

世界で一番会いたい人だった。



「バンドエイド、バンドエイド、バンドエイドちょーだいーーっ!」

聖がドアを開けると、杏樹は転がり込むように、部屋に上がる。玄関に脱ぎ捨てられた下駄が、冷たいタイルの上で乾いた木の音をたてて転がる。
あまりのことに言葉も出ないまま、聖は棒立ちになり、ドアノブにかけた手を外すことさえ思いつかない。振り返ると、リビングのフローリングの床の上にしゃがみ込んだ杏樹は、泣きそうな顔で足の指の間をさすっていた。






「マメ、ですね」

「マメ、ですねぇ」

「痛いですか?」

「メタクソ、痛いわよっ!」

聖の長い指が、杏樹の足の親指と人差し指の間、ちょうど鼻緒があたる部分にそっと触れる。

「履き慣れないものを履くからですよ」

「だってぇ、だってぇ、唐人に浴衣見てもらいたかったんだもん。一緒に浴衣着て、お祭行きたかったんだもんっ」

脹れた顔でこちらを見上げるその顔に、聖は叶わない、と小さく左右に頭を振る。
かわいい恋人のかわいい無理に、胸が熱くなってしまう。
平気で自分の心を、鷲掴みにしてしまうこの悪戯な恋人は、あまりにそれを簡単になんの造作もなくやってしまうので、そう言ってニヤリと笑う顔を見ていると、鷲掴みにされた自分の心臓はボールのように中に投げ上げられて、遊ばれているのではないかと聖は思ってしまう。

薬箱から取り出した、ベージュの絆創膏を白い足の指先に、ぐるりと回して止めてやる。足の指に触れただけなのに、おかしいほどに心臓がうるさくなる。
そんな聖の様子を見透かしたように、杏樹はわざととんでもない言葉を発する。

「ねぇ、キティちゃんのないの?茶色じゃつまんない。キティちゃんの絆創膏がいいー!」

「あるわけないでしょうが」

呆れたふりをしてそう言うと、巧みにずっとおあずけを食らわせられていた唇を、誘うように尖らせたそれに近づける。

「そういう我侭ばかり言う口には、フタをした方がいいですね」

「フタ?してしてっ♪」

笑いながら、じゃれあうように重なる唇。二匹の子猫がじゃれあうように、フローリングの床の上に、小さな笑い声が転がる。けれども、次第にそれらは冗談では済まされない、熱い、迸り出る、感情のうねりに飲み込まれ、笑い声とは全く違った、男女の息遣いが床を這う。

「ねぇ、やっぱり、浴衣ってそそる?」

聖の唇が、はだけた浴衣から覗いた白い首筋をゆっくりと伝い降りる途中、杏樹の口から吐息に混じって、それは零れ落ちる。それは、まだ自分は呑み込まれてなどいない、という強がりのようにも聞こえ、聖は少し思案したあと、耳元でそれに答える。

「ええ、おかしくなりそうなほどに……」

その言葉に満足気に微笑むと、杏樹は最後の意識の一本を、聖が紐解く浴衣の帯と同時に、押し寄せる濁流の中へと解き放った。






「着付けはどこで習ったんですか?」

ベットに横たわる聖と、姿見越し目が合う。杏樹は器用に、浴衣の帯を締め上げながら、なんでもないふうに答える。

「天使はなんでも出来るんですぅ。これも、魔法の一つですぅ」

とても、機嫌がいいようだ。
真っ赤な帯を綺麗にリボンに結い上げると、杏樹は聖に近づく。ふいをついたように聖の腕が、杏樹の細い腕を掴むと、何も纏っていない裸体の胸に抱き寄せる。

「あ〜〜、もう、ダメダメダメダメ!せっかく、浴衣着たんだからぁ、また脱がせたりしたら杏樹さん、怒るよ。 今日はお祭に行くの、絶対、絶対、行くのぉ!」

「どうしても?」

「どうしてもっ!」

上目遣いに杏樹が聖を見上げる。勝負は3秒で決まる。

「分かりました。行きましょう」

自分は、この人には常に負ける運命なのだ。そう、心の中で苦笑しながら、聖は短く一度、杏樹の唇の口付けると、ようやく起き上がった。






どこで用意したのか、杏樹が用意した浴衣を聖も纏うと、二人はようやく日が翳り始めた夏の夕刻を、祭の音のするほうに歩き出す。
カランカランと心地よい2つの下駄の音が、路地の水撒きされたコンクリの上で転がる。暑さは日中に比べると、幾分しのぎやすいものになったが、一秒たりとも休むことを知らないセミの声は、昼間と変わらぬ強さで鼓膜に響く。

手を繋ぎたい、そう杏樹が思った瞬間、その瞬間を掬い取るように、聖の左手が杏樹の右手を指に触れる。
あれほど体ごとぶつかりあったというのに、あれほど指の間を犯すほどに強く、手も握りあったというのに、こうして隣でお互いの指先に触れるだけで、気が遠くなるほどに心が軋む。
急に無口になってしまった二人の言葉は、代わりに複雑に絡まりあう指先で行き来する。何度も、何度も、指先だけなぞるように、絡まるように、聖の指が杏樹の指の間を滑ると、それに応えるように杏樹の細い指も時に逃げ、時にそれに応え、絡まりあう。
それは、何度となく白いシーツの上で絡まりあった、二人の長い足のようで、なんともお互いを淫らな気持ちにさせる。
狂おしいほどに昂ぶる情熱とは別の場所で、不自然なまでに醒め切った例の脳裏の一部が、もう一人の自分のように聖を見つめる。

 一瞬に溺れる……。

そんな気持ち。続きのない、今、この一瞬だけに溺れる。
想いが強ければ強いほど、あとに残る一人きりの空洞が堪えがたいほどに重くのしかかることを知っていながら、聖はその刹那的な気持ちの昂ぶりを抑える術を知らない。

うるさいセミの声が、ますます、さめざめと耳を潰す。


そんな聖の心の葛藤を見透かしたように、杏樹の声が祭の喧騒に聖を連れ戻す。

「ねぇねぇ、デブリンにお友達釣って帰ろうよ〜」

金魚掬いの屋台を見つけると、杏樹が駆け出す。






聖が掬い上げた二匹の金魚が入ったビニールの袋を満足気に、ぶら下げながら杏樹は聖の前を歩く。
ふいに、見つめていた真っ赤な帯の背中が、もう二度と振り返らないような気がして、聖は咄嗟に杏樹の手を掴む。自分のしていることに気付いたときは、もう遅かった。
親指と中指で楽に掴みきれてしまうほどに細い、その白い手首を掴んだ手を離してしまったら、もう二度と会えないのではないか、訳の分からない焦燥感に襲われ、思わず背中の帯に手を回し、抱き寄せようとする。

杏樹は驚いたふうでも、取り乱すふうでもなく、黙って笑う。寂しげに、穏やかに笑う。

「大丈夫、大丈夫よ、唐人……」

人目も憚(はばか)らずに抱きしめてしまったあと、杏樹の優しい声が聖の耳元で何度も囁いた。

「大丈夫、大丈夫、私はここに居るから……」

いくら抱きしめても足りないと思うほどの気持ちの昂ぶりが、その穏やかな声にゆっくりと解かれていく。

「ねぇ、あれを買って……」

聖の背中越しを見ながら、杏樹は静かに呟く。
振り向いた聖の目に映ったのは、竹の棒に鈴なりにぶら下げられた、ガラスの風鈴だった。

聖の手を握ったまま、杏樹は色とりどりのそれらの音を順番に聞き分ける。

「これがいい、綺麗な音……」

そう言って、朝顔の絵が描かれた、透明に透き通る薄翠色の風鈴に、繋いだ手とは逆の手の人差し指で、そっと触れる。

「ねぇ、唐人……」

しなやかな長い首のうなじが振り向く。何かとても大事なことを言う時のくせで、杏樹の小さな顎が短く震える。

「風は見えないでしょう?風が見える人間は一人もいないでしょう? でも、風を感じることは誰でも出来る……」

ゆっくりと、杏樹の唇が近づく。けれども、実際に触れあったのは、唇ではなくお互いの頬であった。塞がることのなかった唇は、大事な想いを伝えるため。

「見えなくても、手に触れることができなくても、あたしはいつでもあなたの側にいるから。
私の代わりにあなたの前髪に触れるあの風と、私の代わりにあなたに話しかけるこの風鈴を揺らすあの風と同じように、いつでも私はあなたの側に居るから……、だから……」

そこまで言うと、杏樹の唇がゆっくりと頬を伝い、目頭のあたりに口付ける。

「泣いたりしないで……」


その瞬間、ぐらりと辺りが反転し、体の上下が逆転するほどの立ちくらみを覚え、意識が途切れる。


目覚めた聖は、身じろぎもせずに、だまって見慣れた天上を10秒見つめると、何かに突き放されたような想いがして、ゆっくりと瞼を閉じる。
白いシャツは寝汗でじっとりと背中に張り付いていた。

(夢か……)

左手の親指と人差し指で、閉じた瞼の上に触れると、濡れた指先に自分で驚く。

(泣いていたのか?)

ありえない、自らの瞳の感触に狼狽すら覚える。けれども、たったいま、自分が弾き出されてしまったあの甘美な夢の一時を思うと、とても自然なことにも思えた。

一体どれくらい寝ていたのだろう、暑さに立ちくらみを覚え、横になった時は、まだ夕闇があたりを包み始めたばかりの時刻のはずだった。
そういえば、記憶の最後の網には祭囃子の音が残っていたが、今はただ真夏の夜の沈黙だけが、横たわる。

その時、夜の闇の静けさの中に、浮き上がるように響いた、涼しげな音に聖はビクリと窓辺に目をやる。
窓の外に広がる、夜の帳の前で、美しく透き通った薄翠色のガラスの風鈴が、揺れる。
慌ててふり返った、水槽の中では、2匹の新しい小さな金魚が、泳いでいた。

震える指で、目の前でゆらゆらと気持ちよさげに揺れる、風鈴の短冊に手を伸ばす。

”暑中お見舞い申し上げました  杏樹”


爽やかな風が吹き抜ける。
頬を優しくなで、白いシャツの下を探るようにかけぬけ、長い前髪をからかうように揺らす。

薄翠色のガラスが、優しく涼しげに囁く。


”いつもあなたの側にいます”




8.11.2003


<FIN>















□YOYOさんより□
以前、まゆさんちの掲示板で杏子ちゃんが呟いていた のがヒントで、最終的にはこんなイラストになりました。

杏樹ちゃんと浴衣着て縁日で
”デブリンのお友達持って帰ってあげようよ〜”
と 二人で金魚掬いするとか…想像中…

なんて、おっしゃっておりましたよね…。
最初はふつーに金魚すくいする図を想像していたのに ま、結局こんなかんじで勘弁してください。






□杏子より□
YOYOさんは、本当に本当に、私の忠実なシモベであり、愛すべき患者であり、そして大切なお友達でした。YOYOさんがESCAPEにプレゼントしてくれた絵は60枚を超えます。
”杏子ちゃんに喜んで欲しくて描いてる”
YOYOさんの口癖でした。そんな彼女に、何度も何度も私は励まされ、ここまでやってこれました。
ジカキにとって、拙作に挿絵をいただけるというのは、本当に感激ものなことです。YOYOさんが初めて私に絵を下さったのは、奇しくも2月10日、ちょうど半年前のことでした。本当に沢山の絵を頂きましたが、最近の絵は、技術的な向上だけではなくて、本当に胸にくるものがありました。とても丁寧に丁寧に思いを筆に乗せてくれたようで、涙がでました。
これも、その一枚です。見た瞬間に、物語の菌があっという間に舞い始め、どうしても書きたい!そういう思いに久しぶりにさせられました。
祭の最後に、ESCAPEは私一人だけで、やってきたんじゃないんだよ、と思えるような作品を出せて、今、とても幸せな気持ちです。
祭の終わりはどこか寂しかったり、うら悲しかったりしますが、祭の思い出は、いつまでも楽しいものでありますように……。
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