| 太陽と月に背いて 9
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「今日、あたし…、帰りませんから…」
「どうせ帰すつもりは俺にもなかったから…。 だが、やっぱり俺はここで君を帰すべきなんだろうな…」 その言葉は、相手に対してのものなのか、それとも自分に向けられたものなのか、それとも、ここには居ないその人へむけられたものなのか…。 「珍しいですね…。あなたでも弱気なこと言うんですね」 「分かってるのか?」 一瞬厳しくなったその咎めるような口調が、まるで自分の覚悟と現実を秤にかけるのを試しているかのように、耳を刺す。 「君も今帰らなかったら、帰り道はないということが…。後から帰ろうと思っても、同じ道を通っては帰れないと思え」 「あたしは…、帰り道のことなんか考えて、人のこと好きになりません。どうせ、今だってもう、楽に歩いて帰れる道なんてないのに…。 あたし、今日は帰りません…!」 「カットーーーーーー!!」 その男の高い叫びが、空間の空気を切り取る。一瞬にして、流れていた空気の色と重さが変わる。 「う…ん、悪くはないんだけどさ。そうじゃないんだよな、違うんだよ…」 このドラマのプロデューサーであり監督である金子は、手のひらで一度自らの顔を無造作になで、口元を拭うような動作をする。どこか隠し切れない苛立ちがそこに現れる。 「『帰りたくない』って言ってるわりには、絶対『帰りたそう』な顔してるんだよ、マヤちゃん」 「……」 マヤは言葉を失う。言い訳は何一つ出来ないとわかっていた。そんなことは自分が誰よりも、分かっていた。 マヤはこの役が掴みきれていなかった。 マヤが勝手に髪を短くしたことで、一時は騒然としたこのドラマの舞台裏ではあったが、撮影は無事に進み、視聴率も初回から20%台というまずまずの連ドラの及第点を取ったばかりだった。しかし、ヒットメーカーと言われるプロデューサーの金子、そして北島マヤを始めとしたこのキャスティングで言えば、30%の大台は充分に見込めるものであり、また暗黙の了解としてそれが課せられているのは現場の誰もがわかっていたことだった。 マヤの演技は可も無く不可もなくといった無難な路線できていたが、第3話の撮影からどこか勢いが衰えていた。例えていえば常に迷いが付きまとい、本人も完全に迷路に迷い込んでしまっているような状態であった。 スタッフにとりあえず休憩の指示を出したあと、俯いたままスタジオ内の椅子に座り込むマヤの隣に金子はゆっくりと近づく。 「役の上で迷うのはいいが、今の君はそれ以前の段階で悩んでるな。役を掴みきれてない。だから、昨日と今日とで違う演技をする。芝居がつながらない。結果、君の演じる『朋子』は一人じゃなくて、何人も現れてしまう。今はまだ第一回しか放送されてない。だが、すぐにそれも視聴者にバレるだろうな…」 ゆっくりと紡がれていくその言葉は、響きこそは穏やかであったが、容赦なくマヤの弱っている部分を攻め立てる。 「…すみません」 掠れた声でマヤがそう言った瞬間、金子の鋭い声をがそれを遮る。 「謝って欲しいんじゃないっ!というか、謝っても意味がないのは、君も分かってるだろう…。俺は君のいい演技が欲しい。それだけだ…」 謝って済むことではないのは、自分が一番分かっていたのに、思わずそんなことを無責任に口走って、プロとしての自覚のなさを露呈したことにマヤは恥ずかしさのあまり、下唇を前歯で噛む。 「君のその迷いは…、髪を切ったこととも関係あるのか?」 決して無理にでも聞き出そうという強引な響きは金子のそれには全くなかったにも関わらず、核心部にメスを入れられたようにマヤはびくりと体を震わせ、大きく見開いたその瞳で、金子を見つめ返してしまう。 「…わ、わからないんです。朋子のその無責任な明るさが…。 ただでさえぜんぜん釣り合わない相手なのに、その上奥さんまで居る人好きになって、それでも『自分さえよければいい!今さえよければそれでいい!』って、ぶつかっていくのって、なんか違うと思うんです…」 核心部に触れながらも、もっとも触れてはいけないその部分、”自分が髪を切った理由”については、うまく避けながらマヤは訴える。 「なるほどね…。君の恋愛観とはズレるというわけか…」 そう一言呟くように言うと、思い出し笑いのような、マヤには不可解な小さな笑みを浮かべる。 「君は昔から、その役になりきることによって、経験することによって、役を掴みそして演じる感覚を掴んでいたようだな。だからこそ君の演技には技術だけでは追いつかない、一種異様な雰囲気があり、誰もが君に呑まれるわけだが…。 だが自分とは違うものの考え方をする役に出会ったら、演じられないとは女優として致命的だぞ。殺人犯の役に対して「人を殺したことがないので分かりません、演じられません」が通用しないのは、君だって分かるだろうが。 大事なのは、なぜ朋子がそう考え、そう行動するかを理解してやることだ。同じ経験をし、心身ともにその状態に同化させることだけが役を掴む方法じゃない。ましてや、自分と同じような境遇にあるその役が自分とは違う考え方をしただけで、役を見失うようじゃ、悪いがこの先、話にならない…」 その最後の金子の一言にマヤの心臓がドクリと音を立てる。 (気づかれている…) どこまで金子がそれを知っているのかは、この際重要ではなかった。ただ、自分の『そのような状況』がこの撮影に影響を与えていることが晒され、マヤはあの紅天女の試演の時の役を見失った恐怖を思い出し、体のどこかにガチリと音を立てて施錠されたような感覚に陥る。 血の気が引いたような顔で床を見つめつづけるマヤに対して、金子は自らの髪を一度掻きむしったあと呟く。 「それから、朋子のその明るさを『無責任な能天気な明るさ』と片付けてるうちは、君は朋子が分からないだろうな…。彼女が泣くことも叫ぶこともしない本当の理由を、よく考えるんだ」 そう言って肩を叩いた金子の手の温かさが、決して突き放す種類のものではないことを心の底で安堵しながらも、マヤはその言葉の持つ意味にすでに囚われる。 …泣くことも叫ぶこともしない本当の理由… (朋子は本当は泣きたかったの…?) 置いてきぼりにされていた役の背中が見えてきたその一方で、何か得体の知れないものが着実に自らの背中を追ってきてる事に、この時マヤは全く気づいていなかった…。 ![]() 「これを使うといい」 真澄が料理も全て片付けられた白いテーブルクロスの上に置いたシルバーのその物体を、マヤは訝しげに見つめる。別に初めてみるものでもないのに、その存在理由に戸惑い、やっと出てきた言葉さえも、喉に引っかかる。 「え…と、これって…」 「携帯電話だ」 あっさりそう言われ、マヤは少しむっとする。 「分かってます!そんなの見ればわかるし。麗だってみんなだって持ってるもの。持ってないのなんて私だけだったし…」 ただ、真澄がそれを自分に持たせることにマヤは戸惑っていたのだ。いずれにしても、仕事の連絡の都合上でも、携帯電話を持つことはすでに何度もマネージャーから言われ、マヤもその必要性を感じていた。こんなことがなければ、きっとマヤ自身で明日にでも買っていただろう。携帯電話なんて、いまどき誰でも持っているのに、なんの特別な意味もないのに、それをこの人から貰うだけで、どうしてそれは突然意味を持ち出し、背徳的な空気を呼び起こすのだろう。そう、それはまるで、秘密を共有するような不思議な後ろめたさがある。 「ご不満なようだな。俺に首輪をかけられるのは嫌だとでも言いたそうだが、これは…」 「分かってます!!どうせ、マネージャか水城さんにでも言われたんでしょ?仕事するのにないと困るっていいたいんでしょ?!」 真澄の言葉を遮るように、必要以上にヒステリックに飛び出した自分の声にマヤは正直、呆れる。 (きっとこういうところが子どもだって、笑われるんだ…) そう思って、思わずテーブルの上のそのシルバーの冷たい物体から目を逸らす。 「違うよ…」 マヤの心の葛藤を見透かしたように、真澄の優しい声が被さる。 「…え?」 驚いてマヤが視線を上げると、怒っていると思ったその表情はとても穏やかで、口元は決して笑っていないのに、目だけで自分を安心させる暖かなその視線がマヤを捕らえる。 「君の声が聞きたいからだ…。いつでもどこでも、君の側に居れないかわりに、君の声が聞きたい…」 そんなことを言われるから自分は何も言えなくなる。 そんな言葉で自分は甘美に縛られるから、動けなくなる。 うるさくなった心臓の音を誤魔化すようにマヤはわざと怒ったような声で言う。 「そんなこと言って…、誰からもかかってこない携帯持ってるのほど寂しいことってないから、ちゃんと…、ちゃんとたまにはかけてきてくださいよっ」 「毎日かけるよ…」 その無防備な優しい響きにマヤは声には出せない警笛を鳴らす。 (約束はしないほうがいいですよ…) そう言葉に出すかわりにマヤは、食後に出された苦いエスプレッソとともにそれを飲み込んだ。 こうして、真澄と月にも背くような関係になって、2週間が過ぎた。食事をしたのは今日が3度目。お互いに忙しいなかで、これは多いほうなのだとマヤは言い聞かせる。実際、真澄がマヤのオフ日を優先して仕事のスケジュールを動かしているのは明らかだった。 (幸せですか?) と○×形式で誰かに聞かれれば、自分は間違いなくYESに○をつけるだろう。けれども、『幸せの種類』を聞かれれば自分はたちまち閉口してしまうのは分かりきっていた。それでもこれ以上の幸せを望むなんて、マヤにはとてもとても考えられず、不満や不安の要素を見つけると、見つけた自分自身を叱りつけた。 あの日、気持ちが残酷にも通じ合ってしまった時以来、真澄は一度も『好き』だとか『愛している』などと言わない。 そして、自分も言わない。 そんなことは言い合わない。 言葉にしたら、何かを確認しあったら、たちまちに壊れてしまう関係だから…。何も口に出さず、ただ体の内側にだけその叫びを閉じ込め、扉を閉め鍵を掛ける。次第に膨らむその塊は、今にも打ち破りそうにガタガタと扉を圧迫し、かかった鍵さえも音をたてて、震え出す。 それでも、声は出ない。 声が出ない代わりに、皮膚の細胞がざわめく。時々、どうしようもなく、自分の体の皮膚たちが熱を持ったように暴れだし、マヤを乱す。例えば、真澄がそんな風に切ない苦しげな表情で、自分を見つめる時。 目は口ほどに物を言う、というのが本当であれば、どうしても自分のこの思いは今この瞬間に、真澄に伝わらないのだろう、とマヤは子宮の内側から押し寄せる、身に覚えのない熱の波のうねりをやりすごしながら思う。 一緒に居れるだけで幸せだと思っていたのに、たまにこうして話ができるだけで、涙が出るほど幸せだと思っていたのに、心は決心を裏切り、体は心を裏切る。幸せであることを満足しようとすればするほど、マヤは幸せではないことを自覚させられる思いがした…。 「綺麗な爪だな…」 真澄の長い指が、マヤの綺麗に整えられ、ピンクのマニキュアが薄く塗られた爪先を掬い取る。親指の腹でそのツルツルとした爪の感触を楽しむかのように、真澄はなぞり上げる。 「自分でやったのか?」 「いえ…、あの、ドラマのメイクさんが…。一応女子大生の役だし、お洒落な女の子っていう設定だから…。ほんと、アタシ、普段はこういうこと無頓着で…」 そう言って自分に似合わぬことをやっている照れくささと、執拗なまでに指先を弄ぶ真澄のその熱に浮かされ、真っ赤になりながらマヤはしどろもどろに答える。 「に、似合わないでしょ、あたしにこんなの…」 すぐに短絡的に否定することしか思い浮かばないマヤのその様子に、真澄は小さく苦笑する。その危うい無防備さこそが、11も年上の大人の男を惑わせていることを、この小さな少女はまるで知らない。 いつのまにか、こんな指先が似合うような大人になっていた。もう少女ではないのに…。もう、充分に大人であるのに、あえて彼女を子ども扱いするのは、そうでもしないとどうにも自分の心も体も暴走してしまうのが目に見えていたからだ。そして、どれだけ体が大人へ成長したところで、その心は相変わらずに少女のように純真無垢であるマヤの存在は、あまりに白く一点の汚れもなく、じわじわとそこへ色の無い染みをつけていく自分の存在が、真澄は恐ろしくなる。 「似合うよ…。君ももう大人だ…」 静かにそう告げると、真澄はその指先を持ち上げ、その爪先だけに短く口付けた。まるで大人の証拠を刻印するかのように…。 『今日あたし、帰りませんから…』 朋子の台詞が思わぬところで響きだす。 (いま、この台詞を自分が言ったらどうなるだろう…) そんなことを考えてみる。考えてみたけれど、絶対にそんな言葉は自分の唇を突いて出てこない自信がマヤにはあった。くだらない自信だけれども…。しかし思わぬ所で、心の防御装置は決壊する。 「今日、撮影を中断されました。金子さんにダメ出しされて…。『帰りたくない』っていう台詞を『帰りたそうな』顔してあたしは言ってるって…」 それは本当に意識の網をするりと潜り抜けて、こぼれ落ちてしまったようだった。無意識に自分の口元を動かす神経が一体、どこにあったのか心底訝しく思ってしまうぐらい…。 マヤの指先が真澄の指からするりと逃げる。 「今晩あたし、帰りませんから…」 真澄の表情が明らかに色を変えたのをしっかりと見つめながらマヤは言う。 「速水さん、教えてください。あたしは本当に帰りたくない顔をしてますか?それとも、帰りたそうな顔をしてますか?」 2003.3.12 ![]() |
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