追憶 1
written by lapin
ずっと、自分の恋心を秘めて、仮面を被り続けてきた。
時にはどうしても仮面を被ることができないほど、彼への想いは大きくなっていたが、それでも女優として彼の前に立ち続けた。
そして、私は紅天女になった。
紅天女は演劇を始めたときからの夢だった。そのために母を捨て、母は死んだ。決して譲れない舞台への情熱が自分を生かしている。演劇さえあれば生きていける。愛されなくても…。
そのはずだった。

いつしか、秘めた想いを抱き続けることに言いようのない苦しみを感じるようになっていた。彼に知られてはならない。私をいつも子供のようにからかう彼。11も年上で、遠い世界の頂点に立つ彼。美しい婚約者ともうすぐ結婚する彼…。
でも、心は悲鳴を上げている。
なぜ?なぜ、あたしに構ったりしたの?紫のバラを贈って励ましたりしたの?
差し伸べられた腕を掴もうとした瞬間にそれが消えてしまうくらいなら、最初から希望など与えられなかった方がよかった。あたしが紅天女の候補だったから優しくしてくれたの?あなたが好きなのは女優のあたし?
それとも…。

怖かった。彼の本心を確かめることがとても怖かった。でも、もう限界だった。彼に自分の想いを伝える決心を、した。













大都芸能社長室。
手付かずの決済書類を前に、またタバコを忙しなく揉み消す。灰皿は瞬く間に山のような吸殻で崩れそうになっていた。イライラしている自分を持て余しながら、ちらっと時計に目を遣る。マヤとの約束までまだ10分以上ある。
今からイライラしてどうする、と自分に言い聞かせて浅く息をつく。
今朝、水城からマヤが会いたいと連絡してきたことを聞いた瞬間から、何も手につかなくなった。普段からマヤに関しては冷静ではいられない真澄だが、これほどまでに落ち着かないのには理由があった。

マヤが、紅天女の試演で見事姫川亜弓を抑えて紅天女の上演権を手にしたのが先月。すぐさま大勢の芸能プロダクションが彼女に群がって所属と上演権の交渉を開始した。そんな中、真澄は周囲の予想を裏切り、二の足を踏んでいた。
マヤが大都芸能を選ばなかった場合に英介がどう出るか。北島マヤを潰せ、と自分に命令したときの英介を思い出すと寒気がしたが、だからと言って、いつもの調子で彼女と接するのは考えただけで気が滅入った。

試演でマヤの紅天女を見たときから、真澄は追い詰められていた。一度は鍵をかけたはずの恋心が枯野を走る炎のように、一瞬で真澄の心を焼き尽くした。それほど彼女の舞台姿は圧倒的だった。自分のすべてを賭ける情熱がいつにも増して真澄を翻弄する。
彼女の舞台を見るたびに感じる強い歓びと自分の生き方への疑問。
マヤは真澄の心を素にする。義務と責任に縛られて自分の心に蓋をすることが苦痛でたまらなくなる。

マヤと会うことを恐れるもうひとつの理由。それはマヤ自身だった。
思えば、紅天女の稽古の最中から彼女の様子はおかしかった。阿古夜の演技がどうしてもできず、堪りかねた真澄が彼女に辛辣な言葉を浴びせて奮い立たせようとしたときも、真澄の予想に反して涙を見せた。
そして、暴漢に襲われて意識を失っていたときに見たあの美しい幻…。
あれはいったい何だったのだろう?まさか、彼女は自分を?そこまで考えるといつも壁に突き当たる。そうであってほしいという思いとそんなはずはないという思いが渦巻き、身動きがとれなくなる。
それに…万に一つも彼女が好意を寄せてくれていたとしても、自分にはどうすることもできないのだ。
来月に迫っている紫織との挙式に思い至ると、乱暴にタバコを揉み消し、間髪を入れずに次の1本に手を伸ばす。じっとしているのが苦痛だった。今日、彼女は何を話すつもりなのだろう。
最近の彼女がわからない。
それに自分自身も。













控えめなノックが響く。

「社長、マヤさんがいらっしゃいました。お通ししてもよろしいでしょうか?」

水城の冷静な声を耳にしてひとつ深呼吸した後、真澄はああ、と努めて冷静に応えた。

彼は顎の下で腕を組んで、こちらをじっと見ているようだった。逆光で表情が見えない。さっそくうるさくなり始めた心臓を必死で抑えながら、マヤは自分の足元を見つめる。決意が見る見る萎んでいくのを感じた。
「どうした。何突っ立ってるんだ。いちいち座れと俺に言わせるまで君は立ってる気か、チビちゃん」
いつもと変わらない、少し意地悪で落ち着き払った真澄の言葉に、慌ててソファに腰掛ける。昔のように何も考えずに言い返すことができない自分に、心の中でひとつため息を吐いた。
マヤの正面のソファにどさっと腰掛けると、真澄はさっそくタバコに手を伸ばす。目を細めて煙の向こうのマヤを見つめる。久しぶりに間近で見る彼女は、陰のある表情のためか、ひどく大人びて見えた。思わず視線を外す。

「まさか君の方から俺に会いに来てくれるとはな。何の用だ」

皮肉っぽい自分の口調に内心うんざりする。彼女は俯くと見る見る眉根を寄せる。いつからだろう、彼女が自分の言葉にカッと言い返さなくなったのは。会っても嫌な顔をしなくなったのは。むしろ、戸惑ったような顔を見せる。たとえば今も。真澄の動悸が自然に速くなる。本当は気づいていた。いつの間にかふたりの関係が変わっていたことに。しかし、言葉はいつでも勝手に気持ちを裏切っていくのだった。

「あの…あの、あたし、速水さんに、大都芸能に紅天女の上演権を譲ることにしました。待っていたけど、何も言ってこないから…」

「何?!」

いつまでもぼそぼそと話し続けそうな彼女を慌てて遮る。予想外の言葉に思わず大声を出してしまう。

「自分が何を言ってるかわかってるのか?死んでも大都では上演しないっていつも言ってたじゃないか。いったいどういう風の吹き回しだ、チビちゃん」

マヤは真澄の勢いに呑まれたように伏せていた顔を上げ、彼を見つめ返した。次の瞬間にその瞳が苦しげに揺れる。唇が一瞬細かく震えたが、結局何も言葉は出てこない。そんなマヤの様子を仔細に眺めながら、真澄は大きく煙を吐く。身を乗り出して震える指で吸殻を揉み消しながら、彼女を斜交いに見遣る。

「本当にいいのか。後悔しても知らんぞ」

マヤは決心の固さを示すように、小さく頷いてみせた。真澄が息を吐く。

「どうやら冗談じゃないみたいだな。君の頭の中がどうなっているか俺には見当もつかないが。君が本気ならこれほどありがたいことはない。さっそく水城君を呼んで書類を作らせよう」

そう言って立ち上がりかけた真澄にマヤは慌てて声をかける。

「待ってください。まだ話は終わってません。上演権は確かに速水さんに譲ります。でも…、でも条件が1つあります」

「ほう。条件か。それもそうだな。これほど大事なものを憎い相手に譲るからには、さぞかし難しい条件があるんだろうな。まあいい。紅天女だ。何でも聞いてやる」

真澄はソファに深く座り直すと、新しいタバコを人差し指と中指に挟んで無意識に上下させながら、マヤを見据えた。

「本当ですか?!本当にいいんですか?」

鷹揚に言い放った真澄の言葉に縋り付くように、マヤは必死で真澄を見つめる。その切実な様子に真澄の背を冷たいものが滴り落ちる。

「あたしの条件は1つだけです。速水さん、教えてください。紫のバラの人はあなたですか?」

ムラサキノバラノヒトハアナタデスカ?

不意に止まった真澄の指からタバコが静かに滑り落ちた。













ムラサキノバラノヒトハアナタデスカ?

「何…何を急に言い出すんだ、君は?」

狼狽しながら真澄は視線を逸らす。横顔に痛いほどマヤの視線を感じる。

「速水さん、あたしはあなたの正直な答えを待ってるんです。あなたの口から聞きたいんです。本当のことを」

本当のこと…。まっすぐ視線を合わせて真剣に語りかけるマヤに圧倒されながら、真澄は必死で考えを巡らせる。そして、諦めたように覚悟を決める。

「ああ、そうだ。俺が紫のバラの人だ」

一生口にしないと思っていた言葉を口にする。見る見るマヤの目に涙が湧き上がってくる。がたんと立ち上がると、あっと言う間にマヤはソファに腰掛けている真澄の胸に飛び込んだ。ありがとう、本当にありがとう、ずっとお礼が言いたかったと泣きながら繰り返すマヤを、真澄は呆然と見下ろす。突然ぶつかってきた柔らかい体の確かな温もりとシャツを濡らす熱い涙の感触に、眩暈を覚える。思わず彼女の体に腕を回す。一瞬びくっと彼女の肩が震えたが、ますます強く腕を絡めてくる。時間が止まったようだった。

真澄の腕の中で、マヤは心が震えるのを感じていた。タバコとコロンと真澄自身のあたたかな匂いが入り混じり、マヤをすっぽりと包み込む。不意に社務所での一夜が蘇る。夢でもいい。この瞬間が少しでも長く続くといい。こうしていられることが幸せで幸せで、このためならすべてを捨ててもいいとすら思う。しかし、至福の時間は唐突に打ち切られた。

「なるほど。上演権は紫のバラの人への恩返しというわけか。義理堅いな、君は。チビちゃん」

はじかれたように真澄の胸から身を起こすと、マヤは彼の瞳を見つめた。そこには、ちょっと冷たい、余裕たっぷりの微笑が浮かんでいる。マヤを寄せ付けない、大人の顔…。失望が一気に胸に広がり、マヤは俯いて唇を噛むことで何とか涙を抑えようとする。こんなはずじゃなかった。真澄が紫のバラの人だと告白してくれたら、すべてはうまくいくはずだった。時折見せてくれていた優しい表情でマヤを見つめ、今までよく頑張ったなと言ってくれると思っていたのに。そうしたら、彼に自分の気持ちを打ち明けるつもりだったのに。それなのに。
思い描いていた場面と現実のあまりの違いにショックを受けているマヤに追い討ちをかけるように真澄が言う。

「まあ、これで貸し借りなしにしようじゃないか。ちょうどよかったよ。双方合意の上で解消できる」

「解消…?解消って何ですか?」

「悪いが、もう君に紫のバラを贈るわけにはいかないんだ。以前に言ったろう?もう紫のバラが届くことはないと。君は見事紅天女になったんだ。もう俺の援助は必要ない」

ぐるりと視界が回るのを感じる。紫のバラは真澄の真心だと信じていた。真澄が紫のバラを目の前で踏みつけたときも、直接本人の口から否定された今でも、マヤには真澄の真意がわからない。真澄はなぜ嘘をつくのだろう。真澄は本当はとても優しい人だ。ひどいことを言うときは必ず理由がある。
なぜ?なぜ彼はあたしを傷つけるようなことを言うのだろう。

「どうしてですか?どうしてそんなこと言うんですか?あたし、気づいたんです。速水さん、本当はとても優しくて、いつもあたしを見守ってくれていて、それなのにあたしひどいことばっかり言って。ずっとあなたに謝りたかった。謝って、お礼を言って…」

喉に熱い塊が込み上げてきて、マヤはそれ以上言葉が続かなくなる。必死で涙を抑えようとするが、涙は勝手にぼろぼろ零れ落ちて止まらなくなる。真澄はそんなマヤの様子を痛々しそうに見つめていた。手を差し伸べて、強く抱きしめて、何も心配いらない、泣くことはない、俺がついていると言いたかった。君を傷つけたいはずがない、なぜなら俺は君を誰よりも愛しているのだから、と打ち明けられたなら。だが。婚約を解消するなら死ぬと言い切った紫織の顔が脳裏に浮かぶ。それにマヤの母親を死なせたこと。今まで数え切れないほどマヤの泣き顔を見てきた。現に今も自分は彼女を泣かせている。愛しているなんて言う資格は俺にはない。たとえ、自分の気持ちが永遠に彼女に伝わらないとしても、愛していることに変わりはない。この気持ちは一生のものだ。紫のバラという表現手段を失っても、消えることはない。決して。いつもと同じ絶望的な結論を導き出すと、真澄は迷いを吹っ切るように首を振った。

「さあ、もう行きたまえ。水城君に送らせよう。書類が整い次第、こちらから連絡する」

マヤは一刻も早くこの場から逃げ出したいという思いと、本当にこのまま引き下がっていいのかという思いに挟まれて咄嗟に体が動かない。これで本当にお終いなのだろうか。

「速水さん。もう紫のバラがいただけないのは残念だけど、それはしょうがないって思ってます。今までしていただいたことだけでも十分すぎるし。でも、どうしても最後に知りたいんです。どうしてあたしに紫のバラを贈ってくれたんですか?」

最後の望みに縋るようにマヤが言う。必死に真澄の瞳の中に真実を探す。しかし。

「君に紫のバラを贈ったのは君の才能を伸ばしたかったからだ。こうして、紅天女になってくれて本当に喜んでいるよ。今後も君の活躍に期待している」

所属のタレントにかけるようなおざなりのあいさつしか真澄は口にしない。目の前で扉を閉ざされた。ようやくその事実がマヤの中ではっきりし始める。彼の本心はわからない。本当は優しい人だと信じている。でも、彼がこれ以上自分との距離を縮めるつもりがないことだけは確かだ。ましてマヤからの愛の告白なんて迷惑なだけだ…。芸能社の社長と所属の一女優。それだけの関係。すうっと体が冷えていくのを感じながら、マヤは何とかあいさつを済ませ、真澄に背を向けると社長室を後にした。  






7.15.2003



…to be continued












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