| 追憶 3
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| written by lapin
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結婚式の前日だというのに、真澄は残業している。 水城は呆れながら、そんな真澄を痛ましいとも思う。愛している人に背を向けて、愛のない結婚生活に身を投じる決意を固めた真澄の胸の内を思うと、遣りきれない思いでいっぱいになる。 なぜですの?真澄さま。あなたは幸せから逃げているように見えます。ご自分から苦しみを求めているように見えます…。 口には出さずに水城は真澄に語りかける。そんな水城の気配を感じ取ったのか、真澄が顔を上げる。 「水城君、君はもういいぞ。後は俺がやっておく。明日は早いんだろう?もう帰った方がいい」 「ふふ。早いのは社長もご一緒ではありませんか」 水城の言葉に真澄が苦笑する。 「確かに君の言う通りだな」 窓の外に目を遣りながら、軽い口調とは裏腹に顔を歪ませる。 「真澄さま、差し出がましいとは存じますが…」 水城が真澄を名前で呼ぶときは、秘書としての職分を超えて真澄に語りかけるときと決まっている。 「本当によろしいんですの?」 はっきりと目的語を言わない水城の言葉は、真澄の選択そのものに対する問いかけだ。 「ああ。俺は明日紫織さんと結婚する。これで大都は安泰だ。君ももう少し喜んだらどうだ」 「いいえ、私は真澄さまご自身のことをお聞きしているのです」 珍しく食い下がる水城に真澄は眉を顰める。 「何が言いたいんだ?」 「どうなさいますの?紫のバラは…」 水城の言葉を遮るように真澄が言う。 「ちょうどいい。君にも言っておこう。その話をするのはこれが最後だ。もう、俺が紫のバラを贈ることはない」 「真澄さま…」 「…マヤは紫のバラの人の正体を見抜いていたよ」 水城が目を見開く。 「それで、上演権を…」 「俺も最初はそう思った。だが」 真澄はきつく眉根を寄せて吐き出すように続ける。 「好きだと言われたよ。女優として見てくれるだけでかまわない。結婚することもわかっているが、俺を好きだと」 信じられない…! 真澄の気持ちは以前から知っていたが、マヤと気持ちが通じ合っていたとは。俄かに希望が湧いてくるのを水城は感じる。 「それで真澄さまは?」 「何も。彼女は俺が紫のバラの人だと知って錯覚しているだけだ」 水城が逆上する。 「真澄さまっ。あなたは…あなたは本当に大馬鹿者ですわ!どうしてですの?!どうして…」 真澄が激しく机を叩く。 「俺にいったい何ができる?!彼女を俺たちの、紫織さんと俺の泥沼に引き込めと言うのか?彼女はやっと念願の紅天女を手に入れたところなんだぞ。それにまだ若い。未来がある。俺がマヤの人生を狂わせるわけにはいかない…」 水城は悔しさと遣りきれなさを何とか胸の奥に押し込める。真澄の決断が水城個人にとってどんなに不本意なものだとしても、秘書としてはそれを尊重するしかないと自分に言い聞かせながら。 「先ほどは大変失礼致しました。記者会見の資料が整っております。ご確認くださいませ、社長」 ![]() マヤはついに式に現れなかった。 真澄もそれでよかったと思う。 あの苦しい口付けを交わした夜以来、マヤとは会っていない。結婚した自分の姿をマヤには見せたくなかった。彼女も自分もまだその準備ができていない。いつになったら穏やかな心で彼女と向き合えるのだろう。そんな日が本当に来るのだろうか。その日が来たら、その時こそすべては終わるのだろう。いや、マヤへの想いを忘れることなど自分にはできない。一生苦しんでもかまわない、忘れるくらいなら苦しみたいとさえ真澄は思う。 だが、マヤには幸せになってほしかった。 幸せ…。 マヤの傍らにいるのは自分ではない…。マヤの幸せを願いながら、もう一方で早速それに嫉妬している自分の救いがたさ、滑稽さに苦笑が漏れる。 彼女を拒絶したのは自分だというのに。 紫織は、窓辺に立ち尽くして自分の存在など忘れたかのように物思いに沈んでいる真澄をじっと見つめていた。やっとこの人と結婚できた。彼の妻になれた。 それなのに、勝利の味は苦かった。 あのキスを目撃したときは足元から血の気が引いていくような気がした。何とかひとりでパーティー会場に戻り、戻ってきた真澄を何食わぬ顔で迎えた。その後、いつまた婚約解消を切り出されるかとびくびくしながら過ごしたが、ついに真澄は何も言わなかった。 紫のバラの絆は断ち切った。 結婚まで漕ぎ着けた。 紫織の望みは全部叶ったはずだった。 それでも消えない不安。 「真澄さま…」 真澄が振り返る。 「どうしました?」 真澄の礼儀正しい、他人行儀な態度が紫織の不安を否が応にも掻きたてる。 「私達、夫婦ですのよ。真澄さま…」 真澄の唇に乾いた微笑が浮かぶ。その目は少しも笑っていない。紫織は見てはいけないものを見てしまったようで、ぞっとする。 「ええ。満足ですか?」 温度のない微笑を貼り付けたまま真澄が問う。紫織は言葉を失い、魅入られたように真澄を見つめる。思いがけない言葉だった。真澄が自分にこんなに挑戦的な物言いをするのは初めてだった。 「困った人ですね、あなたも。僕は、唯一僕にとって大事なものを捨てたのですよ。これ以上僕に何を求めるのです?」 真澄さまの…あなたのお心を。紫織は心の中で呟く。真澄は約束してくれた。紫のバラはもう贈らないと。マヤを諦めると。でも、紫織を愛することはできないとも言い切った。それでもかまわないと食い下がったのは紫織だ。愛されなくてもいい。側にいられさえすれば。そう思っていたはずなのに。 俯いたまま青ざめる紫織を、真澄は不憫に思う。彼女は身勝手な自分の犠牲者だと思った。責任を持って背負い続けなければならない十字架だと思った。 「申し訳ありません。言い過ぎました」 紫織を労わるように肩に手を置くと真澄は短く言う。いつもの優しい笑顔。紫織を追い詰めたのはこの笑顔だ。もう、どこにも行けない。紫織の心を絶望がじわじわと覆う。この先に果てしなく伸びている色のない日々に思いを馳せると、紫織は目の前が真っ暗になるような気がした。縋りつくように真澄を見上げると、必死で目を瞑る。一瞬後に冷たい唇が躊躇いがちに額にそっと触れた。 「僕はこれからいくつか片付けたい仕事がありますので、あなたは先に休んでいてください」 目を開けると、既に背を向けて行きかける真澄の背中が目に映った。 「マヤさんには口付けることができても、妻である私にはできませんの?真澄さま」 絶望的な叫びが紫織の唇から漏れる。真澄の背中がびくっと震える。振り返った真澄の顔は恐ろしいほど無表情で、紫織は恐怖に体が強張る。 「紫織さん、その名前は二度と出していただきたくありません。よろしいですね」 ![]() ラップトップを開いたものの、片付けねばならない仕事などなかった。 諦めたように天井を仰ぐと、真澄はスイートルームを後にする。最上階のバーならまだやっているはずだ。無性に酒が飲みたかった。 新婚初夜の夫がひとり酒か。これからも自分はバーやオフィスに逃げ場を見つけながら結婚生活に耐えていくのだろう。それがどんなに不自然で馬鹿げたことであっても、きっと自分はやり果せるだろう。 大都芸能の速水真澄というこの男は。 ![]() 結婚式には出席しなかった。 紅天女の関係者は当然招待されていたが、黒沼も桜小路も無理にマヤを誘うようなことはしなかった。ひとりでアパートに篭って、身じろぎもせずにひたすら時間が流れるのを待った。麗は何も言わず、そっとしておいてくれた。 自分は泣きもしなかったし、もちろん発狂もしなかった。 ただ、心がカサカサに乾いてしまったのを感じる。悲しみも切なさも諦めも決意も、昨日まであった感情というものが一切消えて、体がひと回り縮んだような気がした。 これからどうやって生きていこう。私にはお芝居がある。 紅天女がある。 そう頭では思っても、やはり心はカサカサのままだった。どこか遠いところに行きたかった。 真澄を思い出させるものが何もないところへ。 ![]() その電話がかかってきたのは、結婚式の翌日だった。 「マヤさん?亜弓です。…ええ、もちろん元気よ…ありがとう、おかげさまで無事成功したわ…そうね、パリでの生活は新鮮でとても楽しいわ。是非いらっしゃいな…そうよ、紅天女の本公演に向けた稽古が始まるまでお休みをいただいたらいかが?…今まで頑張ってきたんだから少しくらい息抜きしなきゃ、ね…マヤさん、私もあなたに会いたいわ」 天恵のような申し出だった。その日のうちに飛行機を予約して荷物をまとめると、翌日にはマヤはパリへと飛び立った。しばらく休みたいと打ち明けると、黒沼は何も言わず、ただ強く頭を撫でてくれた。真澄には…迷ったが、連絡しなかった。 ![]() 新婚旅行に出発する前に社に寄って、真澄は水城の報告を受けていた。 「…それから、北島マヤですが、しばらく休みをとるとのことです。演出家の了承はとってありますし、ご報告するほどのことではないかとも思いましたが、お耳に入れておきます」 感情を一切込めず、事務的に言う。真澄の顔が強張った。 「ほう。休みか。それもいいだろう。しかし、あの娘に演劇をしないなんてことが可能なのか?」 平静さを装いながら真澄が言う。 「それが…日本を離れているようです」 思いがけない言葉に息が止まる。 「なん…だと。マヤは日本にいないのか?」 「ええ。そのようですわ」 水城は黒沼からマヤがパリの亜弓のところに行ったことを聞いていた。逃げるように旅立ったマヤの気持ちを考えると、水城は胸が詰まるような思いがした。真澄に言うつもりはなかった。それは真澄を思い切ろうとしているマヤへの思いやりでもあったし、そうさせている真澄への抗議でもあった。 「どこに行った?マヤは今どこにいるんだっ」 平静な振りをかなぐり捨てて声を荒げる真澄を水城は冷めた眼差しで見つめる。 「存じません」 「マヤは大都の女優だぞ!何かあったらどうする?存じませんでしたで済むと思っているのか?!」 「落ち着いてくださいませ。北島マヤはもう大人です。紅天女の劇古が始まる頃に帰ってくるとのことです。そっとしておあげになるほかないのではありませんか、真澄さま」 水城の冷静な声に微かに混じっている非難の響きが真澄を引き戻す。 「わかった。さっきは大声を出してすまなかった。もう下がっていいぞ」 顔の前で指を組み合わせて額を押し当てる。 「はい…。30分後にお車が参ります。そのときにご連絡いたします」 水城が出て行く。 マヤが消えた。自分にマヤを縛る権利などないことはよくわかっていた。旅立ったマヤの胸の内もわかる気がするだけに、自分の焦りと苛立ちがなおさら身勝手なものに思えた。今の自分にできることはマヤをそっとしておくことだけ。水城の言うとおりだった。だが、真澄の指は迷わずある番号を押していた。 「俺だ。頼みたいことがある」 ![]() 初めての海外は、見ること聞くことすべてが珍しく、目まぐるしく時間が流れていった。 亜弓とハミルは温かく迎えてくれた。ふたりは結婚を控えて一緒に暮らしていた。愛する人の献身的な看護を受けながら視力を回復しつつある亜弓は、晴れ晴れとした明るい顔をしていた。マヤは今でも自分が紅天女を勝ち取ったのが信じられない。さらに美しく強くなった亜弓を前にすると、自分のすべてに自信がなくなる。特に、失恋した直後に幸せそうなふたりを見ているのは思った以上に辛かった。 亜弓は何も言わなかったが、マヤが何かに傷ついて忘れようとしていることを敏感に感じ取っていた。亜弓とハミルは、他に知り合いのいないマヤをアパルトマンに招き、観劇や食事に連れ出した。マヤは恐縮しながらもうれしそうに付いて来たが、どんなに勧めても夜は必ずひとりでホテルの部屋に帰って行った。その後姿は儚く、マヤの抱えている孤独が色濃く滲み出ていた。 ![]() 亜弓の誘いを断って、ひとりで街を歩く。無言の気遣いがいつしか重くなっていた。 ひとりになると必ず真澄のことを考えた。ここまで逃げてきても心の中に棲み付いた幻影からは逃れられないのだと思い知った。今頃は紫織と豪華クルーズの新婚旅行を楽しんでいるのだろうか。幸せなふたりを見たくなくて式を欠席したのに、目にしていないはずの映像が、現実以上の鮮やかさで瞼の裏に次々と映し出される。毎晩のように続くロードショーに、マヤは不思議な歓びを覚えるようになっていた。ひとりぼっちのホテルの部屋で、生々しい幻影に身を委ねる。壊れていく自分の心の音が聞こえるような気がした。 気づくと街の様子が変わっていた。亜弓たちのアパルトマンやホテルのある一角と比べると、明らかに街の格が下がっている。行き交う人々も若者が増えて、学生風のくだけた服装が主流になっている。昔、野外劇を行った街の雰囲気に少し似ていた。あの時も、真澄はさり気なく助けてくれた。それに気づいたのはずっと後だったが。 なおも真澄との記憶を辿りそうになるマヤの視界に、一枚の絵が飛び込んでくる。ひっそりと佇む画廊のガラス張りの窓に飾られた小さな絵。微妙な濃淡の青が幾重にも重ねられた背景に溶け込むように、白い星と月が淡く浮かび上がっている。目を凝らすと、それを見上げる人物らしきものが隅に見える。 女だろうか。 繊細な輪郭が青に溶けそうになりながら、危うい均衡で画面上に留まっている。それだけだった。目を凝らしてその人影を見つめてからふと視線を上に移すと、さっきまでは背景に溶け込んでいた星と月が、眩しいほどに白く、強く光っていた。 呆然としながら絵の中の夜空を見つめていると、熱いものが独りでにこみ上げてきた。気づくと、頬を大粒の涙がぼろぼろと流れていた。ちゃんと泣いたのは本当に久しぶりだった。マヤはいつまでもその絵の前で立ち尽くしていた。 不意に画廊の扉が開く。はっと顔を上げると、マヤは目を見開いた。速水さん?! 「失礼ですが、あなたが気になって…」 日本語だった。長身の男が控えめな様子でこちらを窺っている。20代の後半だろうか。全くの別人だが、どことなく真澄に似ていた。整った顔立ち、優しく思慮深い光を浮かべた切れ長の瞳、落ち着いた物腰。着ているものは洗いざらしのシャツと色落ちしたジーンズだったし、長めの髪は手で無造作に整えてあるだけだったが、男は不思議に優雅だった。真澄から威厳や威圧感を全部取り去ったら、こんな感じになるのではないだろうか。 「…この絵の題名はどういう意味ですか?」 マヤの質問に男は少しはにかみながら答える。 「La Reminiscence、『追憶』ですよ」 「追憶…」 「ええ、失われたものを想う気持ちです」 マヤの目から再び涙が流れる。その透明な流れを、男は息を止めて見つめていた。 「…ありがとう。僕の心を理解してくれて」 ![]() 男は売れない画家だった。 画廊に絵を置いてもらう代わりに留守番をしているのだと笑った。道行く人々をぼんやりと見つめながら、熱いコーヒーを挟んでマヤと男はぽつぽつと話をした。不思議なほど気持ちが安らいでいた。泣いたせいで心が軽くなっていたし、こじんまりとした画廊の中は暖かく、落ち着けた。ようやく辿り着いた休息地。一時でいいから楽になりたかった。 男は遠山青治と名乗った。10年前からパリで生活しているそうだった。日本にはあまり興味がないようだった。マヤも敢えて日本の話をしようとは思わなかった。彼も何も尋ねなかった。 ただ、取り留めのない話を続けた。涙の理由にも、追憶の意味にも、どちらも触れなかった。 夕方になって画廊を閉める時間が来ると、青治は柔らかい微笑みを浮かべながら、明日もいると言った。気が向いたら尋ねてほしいと。そっと手に握らされたショップカードの滑らかな感触をいつまでも確かめながら、マヤはタクシーに揺られていた。 翌日も、その翌日も、気づくと毎日のようにマヤは画廊に足を運んでいた。青治はいつでも快く迎え入れてくれた。 コーヒーはやがて昼食になり、夕食になった。 ホテルの暗い部屋に帰ると相変わらず深夜のロードショーは流れたが、以前ほど自虐的な歓びを感じなくなっていた。 青治には自分が女優であることも、真澄とのことも話していなかった。話せばきちんと聞いてくれて、理解してくれることはわかっていた。でも、実際のところ、話す必要を感じなかった。青治と何気ない時間を共に過ごすだけで満足だった。黙っていてもわかってくれる気がした。 ほとんど何も知らない者どうしなのに、不思議だった。 ![]() 「速水さま、お電話でございます」 隣で海を眺めている紫織にちらりと目を遣ると、何も映っていないという表情で身じろぎひとつしない。声をかけずにそっと席を離れる。 「聖か。どうだ?」 「マヤさまの居場所がわかりました…」 聖の声は心なしか沈んでいる。明らかに気が進まない様子だ。 「そうか。で、どこにいるんだ?どうしている?元気か?」 真澄は矢継ぎ早に質問する。 「パリにいらっしゃいます。お元気そうです」 「パリ?!…そうか、亜弓君のところか。それは思いつかなかったな」 「いえ、それが…」 歯切れが悪い聖に真澄はイライラしてくる。 「なんだ?はっきり言わないか」 「マヤさまは亜弓さまとご一緒ではありません。遠山青治という画家と暮らしていらっしゃいます」 受話器が一気に遠ざかる。真澄はその場で凍りついたように立ち尽くしていた。 7.15.2003 ![]() |