追憶 4
written by lapin
遠山青治。27歳。
天才と名高かった故遠山嗣治画伯のひとり息子で、新進の画家としてパリで注目を集め始めている。
遠山嗣治は青治が十代の頃に事故死している。公にはされていないが、愛人と心中したという話だった。
青治は父の死後、遺産を持ってパリに居を移し、絵を描きながら静かに暮らしている。豊かとは言えないが、自由に絵を描きながら画廊の手伝いをしたりして、何とかやっていける程度の暮らし向きのようだ。マヤとの出会いは偶然だったようで、意気投合したふたりは急速に関係を深め、最近マヤがホテルを引き払って5区にある青治のアトリエ兼自宅に移り住んだ。
そして、マヤは今もそこで暮らしている。

聖の報告はざっとこんな感じだった。聞いているうちに、まだ見ぬ遠山青治に対する信じられないほどの嫉妬が真澄の胸をどす黒く染め始める。桜小路などの比ではなかった。
出会って間もなく、あまりにも鮮やかに彼女を奪ったその男が、真澄には憎くて堪らない。あの内気でおくてのマヤがよく一緒に住むことに同意したものだと思った。うまく丸め込まれたのだろうか。それとも、真澄との一件があって、彼女は無理をしたのではないだろうか。
そう考えると、さらに遣り切れなさが募る。彼女の側にいて彼女を見つめ、彼女とすべてを分かち合う相手が自分だったらどんなによかっただろう。
悔しかった。
そして、それ以上に辛かった。
立ち上がれないほどに真澄は打ちのめされていた。

「聖。無理を言って悪かったな。他の仕事もあるのだろう?もう引き上げてくれてかまわない」

「しかし、真澄さま…マヤさまのことは…」

「俺が、行く」

真澄の有無を言わさぬ迫力に聖は思わず黙る。紫のバラの人の使いとしてふたりの間を取り持っているうちに、聖はマヤに対して仕事を超えた親しみを感じるようになっていた。ふたりに幸せになってほしいと心から願っていた。紫織の願いを聞き入れて、真澄が紫のバラを贈るのをやめたときも、聖は声を上げて反対したかった。
そして、とうとう真澄は結婚してしまった。マヤが気の毒で堪らなかった。真澄の思いは痛いほどわかったが、せっかく新しい幸せを見つけたマヤがまた苦しむのは見るに忍びなかった。

「真澄さま…」

結局、聖はそう呟いただけで何も言えなかった。



紫織のところに戻る気にはなれなかった。タバコに火を付けると、思いきり吸い込む。マヤが見知らぬ男と抱き合っている姿が、繰り返し繰り返し頭に映し出される。振り払っても振り払っても、映像は容赦なく流れ続ける。気が狂いそうだった。自分の甘さに歯軋りする思いだった。好きだと言われて、心のどこかで彼女が離れていくはずはないと思い込んでいた。しかし、彼女は自分のものではない。いつか他の誰かのものになることはわかっていた。だが、実際にそうなってみると、それは想像を絶する苦痛だった。結婚しているくせに、自分は本当に身勝手だと思った。彼女を奪いたい。もう、外聞も体裁もどうでもいい。ふたりを引き離す。







青治との生活は穏やかで心休まるものだった。マヤは、これほど落ち着いて笑っていられる自分に驚いていた。 あの夜。画廊を閉めてから、ふたりでビストロに行き、安い赤ワインを飲みながら食事をした。いつも通りの穏やかな時間だった。何がきっかけだったのだろう。青治は静かに語り出した。『追憶』のことを。

「あの日、僕の絵の前で涙を流している君を見て、ここを何かが流れたんだ」

青治は自分の鎖骨の辺りを右から左にすっと撫でた。

「あの絵は僕が初めて描いた絵だ。決して上手くはない。でも、上手い下手を超えた意味があるんだ。僕にとっては、ということだけれど。
僕の父は天才だった。
天才というのは身近な人間にとっては災厄以外の何者でもない。父は自分の才能のためにしか生きることができない人だった。そのために誰をどれだけ傷つけても生き方を変えることができなかった。家族を持つべきではなかったんだ、本当は。母は父に振り回されて、いつも苦労していた。でも、母を決定的に傷つけたことはひとつだけだ。父は、筋金入りのエゴイストだったにもかかわらず、ある人を愛していたんだ。自分より10歳以上年下の女性だ。父は彼女に夢中だった。何も目に入らなかった。彼女を10年近く求め続け、ようやく振り向いてもらった。でも、父は今話した通りの人間だったし、僕と母の存在もあった。彼女は父のもとを去ろうとした」

青治が言葉を切った。真剣に自分を見つめているマヤに微笑みかけると、ワインを含んで喉を潤し、口を開く。

「17歳のときだ。ちょうど桜の季節だった。当時、僕は郊外にある学校に通っていて、近くには見事な桜並木があった。そこを学校帰りに歩いていると、後ろから車に乗った父が来た。彼女も一緒だった。ドライブでもしないかと父は言った。そんな父親らしい言葉を聞いたのはそのときだけだったよ。なぜだろうな。僕は嫌だと言わなかった。母のことを考えるとひどいことをしていると思ったよ。何せ愛人と仲良くドライブしているんだものな。でも、正直のところ、僕の気持ちはとっくに母から離れていたんだ。気の毒だとは思った。でも、嘆きながら、恨みながら、ひたすら待っている母が重かった。それで、三人で桜並木の道を車で走ったんだ」

青治の顔が青ざめている。マヤは手を伸ばすと、テーブルの上の青治の左手にそっと自分の右手を重ねた。青治がはっとしたように顔を上げてマヤを真っ直ぐ見つめた。とても透明な目をしていた。

「父は最初から死ぬつもりだったんだ。彼女がどう思っていたかは知らない。車が横転して、視界が自分の血で真っ赤に染まっていたよ。狂ったように桜が咲いていて、何かが焼けている匂いがした。僕の体の上には彼女が覆い被さっていて、僕は奇跡的に助かった。父と彼女は即死だった」

呆然と自分を見つめたまま涙を流しているマヤに気づくと、青治は優しく微笑み、マヤの涙を指先でそっと拭った。

「僕は日本を離れた。そして、絶対にやらないと決めていたはずだった絵を始めた。描き上がったのが『追憶』だ。今でも僕の中であの出来事は整理がついていないのだと思う。だから、絵を描き続けているのかもしれない。でも、あの日、君を見て、なぜかはわからないけれど、もういいと思ったんだ。一生整理がつかなくてもかまわないって」

青治の話が終わった。店を出ると、自然に寄り添いながら歩いた。ずっと、こうして歩いていたいとマヤは思った。

「ねぇ、青治さん。あたしもあなたに話したいことがある」

心の底まで届くような真っ直ぐな眼差しで自分を見つめる青治を確認すると、マヤは長い長い話を始めた。
それは、演劇のこと、母のこと、そして真澄のことだった。こんなに誰かに何かを語ったことは今までなかった。
ふたりは青治のアパルトマンまで歩き、窓辺に座った。夜が更けていった。
青治は何回か立っていってコーヒーを淹れた。マヤは時々泣いた。やがて夜明けが来た。マヤの長い長い話が終わった。
ふたりは並んで朝焼けを眺めた。初めて朝焼けを見るような気がした。
重い荷物を脱ぎ捨てて、新しい自分になって、初めて見る朝焼け。

その日からマヤは帰らなかった。







真澄の様子がおかしいことは嫌でもわかった。電話がかかってきた日からだ。
心ここにあらずという感じで、船内での社交もほとんどパスした。初めてのことだった。どんなときでも笑顔を絶やさず、淡々と義務をこなす真澄は、いったいどこに行ってしまったのだろう。
紫織は只ならぬ様子の真澄に不安を隠せなかった。
北島マヤ。
それしか考えられなかった。海上を漂うこの密室にいてさえも、マヤは真澄をこんなに翻弄する。
許せなかった。

一ヶ月後、船はマルセイユに入港した。







とうとう来てしまった。
真澄は、紫織を伴ってパリに来ていた。紫織は時折不安そうに真澄の様子を窺っていたが、優しくエスコートされながら昼は観光名所を回り、夜はパーティーに出席しているうちにいくらか安心したようだった。
真澄も当初の地獄を何とかくぐり抜けていた。優しい笑顔を作り、名所旧跡に関する話を聞かせ、疲れていないかと気遣うことができる程度に。

ようやくいつもの真澄が帰ってきたと紫織は胸を撫で下ろしていた。
きっと何でもなかったのだ。自分の思い過ごしだったに違いない。
そう信じ込もうとした。
結婚した晩の真澄の記憶は、しばらく紫織を苦しめたが、真澄がぞっとするような冷たい目付きで、紫織を傷つける言葉を話すことは二度となかった。真澄は優しい。
いつもとても優しい。







パーティー続きで疲れきったのか、紫織は隣のベッドでぐっすりと眠っている。静かに起き上がると、真澄は衣服を整えた。紫織の静かな寝顔をしばらく見下ろしていたが、思い切ったように部屋を出た。

画廊はまだ閉まっていた。
ガラス越しに薄暗い店内を覗き込むと、奥に小さなテーブルと二脚の椅子が見えた。マヤは偶然ここを通りがかり、青治と出会ってしまった。あの椅子のどちらかにかけ、額を突き合わせるようにしてお互いのことを語り合ったのだろうか。
じわじわと嫉妬が湧きあがってくる。
真澄は画廊を後にしてふたりが住んでいるアパルトマンに向かった。行かない方がいいという声が聞こえたが、すぐにもうひとつの声にかき消される。
マヤをこの手に取り戻す。誰にも渡さない。

不意に真澄の足が止まる。目的の建物の少し手前、真澄の前方で一軒のデリカテッセンの扉が開く。中から小柄な女が大きな茶色い紙袋を抱えて足取りも軽く出てくる。
マヤだった。
反射的に真澄は身を隠す。激しく胸が高鳴っていた。
マヤは少し痩せたようだった。こちらに向けられた背中は真澄の記憶よりもさらに華奢で儚い。見たことのないシャツを羽織っていた。
彼女には大きすぎる…男物か。
胸がずきりと痛む。と、マヤの後ろからドアを閉めながら長身の男が現れる。マヤが振り向く。
真澄の目にマヤの鮮やかな笑顔が飛び込んでくる。恥ずかしがり屋のマヤの、あのもじもじした笑顔ではなかった。穏やかで伸び伸びとした、美しい笑顔だった。その笑顔を向けている相手に自分のすべてを開いて委ねるような全き笑顔。男はそれに応えるように、優しい穏やかな笑顔を返し、マヤの手からひょいと紙袋を取り上げると、自分の左腕を差し出した。マヤは躊躇うことなくその腕に捉まり、ふたりは何やら楽しげに話しながら去っていった。
どちらも一度も振り返らなかった。

真澄は呆然と立ち尽くしていた。
自分がたった今目撃した光景がうまく処理できない。
マヤは騙されているわけでもなければ、無理をしているわけでもない。
マヤは、あの男を信頼している。心を開いている。…愛している。
世界が足元から音を立てて崩れていくような気がした。







こんなことは間違っている。狂っている。

アパルトマンの向かいにあるカフェのオープンテラスに座り、顔の前に新聞を立てながら通りの向こうを見つめる。ふたりが消えてから二時間以上が経っていた。もう昼近い。紫織も起き出しているだろう。こんな真似はすぐに止めて、ホテルに帰った方がいい。
理性は叫んでいたが、足はどうしてもマヤの近くを離れようとしなかった。俺はいったい何をしているのだ。彼女はうまくやっている。自分の出る幕などない。すべてが遅すぎた。これまであまりに多くの過ちを犯しすぎた。
見合いをする前に彼女を呼び出したとき、紫織が自分の気持ちを確かめに伊豆の別荘まで来たとき、社務所で一夜を明かしたとき、彼女が紫のバラの人かと尋ねたとき、そして彼女に想いを告げられたとき…このうちのいつでもいい、自分に決断を下す勇気があったなら、違う未来を掴んでいたかもしれない。
彼女が他の男と暮らす部屋を見上げて動けなくなることなどなかっただろう。
すべてが、あまりに遅すぎた。帰ろうと思った。新聞を畳んで小脇に挟み、立ち上がった真澄の目に、向かいのアパルトマンの階段を駆け下りてくるマヤが飛び込んできた。







マヤは踊るような足取りで前を歩いていく。小柄な体から溢れるような生命力を感じる。こんなに伸び伸びと自由に振舞う彼女を見るのはいつ以来だろう。思い出せなかった。
最近の彼女は、暗く、思いつめた表情をしているところばかりが印象に残っている。紅天女の重圧と…真澄自身。
ふたつの重荷がなくなって、彼女は生気を取り戻したのだろう。マヤは、ショーウィンドウを覗いたり、空を見上げたりしながら歩いていく。急いでいるようには見えなかった。
マヤが一軒の店の前で立ち止まる。しばらく迷っていたが、やがて意を決したように勢いよく入っていった。彼女の姿が店の奥に消えたのを見計らってから慎重に近づく。陶磁器の専門店だった。ショーウィンドウに、繊細なデザインのペアのコーヒーカップが飾られている。店の奥から店員がずかずかと近づいてくると、真澄の目の前で、そのバラ色と空色のカップを手に取った。
コーヒーカップの包みをぶらぶらさせながら、マヤは歩いていく。不意に立ち止まり、時間を確認するようにちょっと腕元に目を落とすと、傍らにある映画館の暗がりに消えた。







「遠山青治さん…ですね」

「そうですが…」

日本語で急に声を掛けられ、驚いて振り返ると、画廊の入り口に身なりの良い見知らぬ男が立っていた。






7.16.2003



…to be continued












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