追憶 5
written by lapin
穏やかで静かな目をした、顔立ちの整った青年だった。育ちの良さと知性はすぐに見て取れた。それ以外にも何かを感じる。何だろう。真澄はいつの間にか探るように青治を見つめていた。

「何か御用でしょうか」

青治に訝しげに声をかけられる。

「これは失礼しました。実は、あなたのお父様の絵を何枚か持っていまして。最近こちらでご活躍されていると聞いたものですから」

青治は画廊に掛かっている絵について一枚ずつ説明し、真澄の質問に丁寧に答えた。
礼儀正しく、控えめで、誠実な態度だった。
27歳。自分より5つ下か。ということはマヤとは6歳離れていることになる。自分と紫織も6歳離れていることを考えると、年齢的にも釣り合いが取れている。
真澄は淀みなく会話を交わしながら、青治をじっと観察していた。最後に、ウィンドウに飾られている絵の前にやってきた。
不思議な絵だった。青い色調の画面にぽつぽつと白が散りばめられ、一見とても地味だが、その青に浸された目で見上げると、眩しいほどに煌く一面の星空が広がっている。まるで、都会の夜空を見慣れた人間が、初めて自然の中で満天の星空を見上げたときのような。

「素晴らしい…」

真澄は心からそう言った。

「La Reminiscence…追憶ですか」

「ええ。僕が初めて描いた絵です。決して技術的に上手いとは言えませんが、気に入ってくれている人もいます」

青治の言葉にぴんと来る。

「ほう…そうですか。ご家族ですか?」

「いいえ。僕には家族と呼べる相手はいません。でも、大切な人です」 大切な人。鋭く青治を射る真澄の視線が、一瞬青治の視線と交わる。27歳とは思えないほど老成した瞳だった。真澄は微かな違和感を覚える。







亜弓とハミルにと選んだペアのコーヒーカップを、ふたりは大喜びで受け取ってくれた。ハミルがさっそくコーヒーを淹れに立つ。それを見計らっていたように亜弓が声を落とす。

「ねぇ、マヤさん。いま、画家の遠山青治さんと一緒に暮らしているんでしょう?」

突然のことにマヤは目を見開いて亜弓を見つめ返す。亜弓が早口で付け加えた。

「ごめんなさいね。余計なお世話よね。ただ、ほら、マヤさんずっと落ち込んでいたでしょう?それで、気になっていたんだけれど…今日、会ってびっくりしたわ。マヤさん、すごくきれいになった」

亜弓にきれいになったと言われてマヤは真っ赤になってしまう。

「そんな…」

「あら、いいじゃない。隠さなくても。だって一緒に住んでいるんでしょ?」

女の子どうしの気安さで亜弓がからかう。

「ううん、違うの。一緒に住んではいるけど、亜弓さんが考えてるのとは違うと思う」

照れ隠しとは思えない、淡々としたマヤの返事に、亜弓は眉を顰める。

「じゃあ、お付き合いしているわけじゃないの?」

「まさか。青治さんは誰とも付き合わないの。あたしはただの居候」

笑いながらマヤが言う。

「そんな…マヤさんはそれでいいの?」

亜弓の深刻そうな顔を見て、マヤが驚く。

「え、だってあたしには忘れられない人がいるから。青治さんもそうなんじゃないかなあ。あたしたち、似た者どうしなの」

「その、マヤさんが忘れられない人は…だめなの?」

おずおずと亜弓が訊く。

「うん。全然だめ。見事に振られてしまいました。あたし、忘れたくてここまで来たけど、もう忘れるのは止めたの。青治さんに会ったおかげでわかった。忘れられないことは無理に忘れようとしなくていいって。あたし、たぶんずっとその人を好きでいると思う。…ごめんなさい、いろいろ心配かけちゃって。あたし、もう大丈夫だから」

清々しい表情を浮かべて自分を見つめるマヤを、亜弓はやはり美しいと思う。

「そう…よかったわ。ねぇ、また一緒に遊びに行かない?久しぶりにチョコレートパフェでもどう?」

「えっ、パリにチョコレートパフェなんてあるの?!」

「あら、何言ってるの?パフェってもともとフランス語なのよ?」

ふたりの後ろでお盆を持ったまま入るタイミングを失っていたハミルが、笑い声に安心してコーヒーを運んでくる。パフェ談義はまだ続く。







完敗だ。
きっとこれでよかったのだ。自分は紫織と結婚し、マヤは青治と暮らしている。何の問題がある?
あの青年なら安心してマヤを任せられる。彼の側でならマヤは笑っていられるだろう。いつも傷つけるばかりの自分よりもはるかに彼女にふさわしい。何の問題もない…ただひとつ、自分を除いては。
そう、問題があるとすれば、それは真澄自身。どうしても思い切れない、諦めの悪い、執拗なまでのこの恋心。
パリはもうお終いだ。
今夜にでも紫織に話して、明日には出発しようと思った。







亜弓たちに引き止められ、つい長居をしてしまった。画廊に着いた頃には、もう青治は店を閉めていた。ドアにはFermeのプレートが架けられ、照明を落とした店内で青治が静かに待っていた。

「ごめんなさいっ」

マヤが叫びながら入ってくると、青治は顔を上げて微笑み、手で椅子を示した。

「え?ごはん食べに行かないの?」

すとんと椅子に腰掛けながらマヤが不思議そうに訊く。青治はマヤを見つめながら、ゆっくりと口を開いた。

「君に見せたいものがあるんだ」

そう言うと、上着のポケットから一枚の小切手を取り出してテーブルの上に置く。

「どうしたの?これ」

マヤは小切手に手を伸ばそうとせずに青治を不安そうに見る。

「今日、『追憶』が売れたんだ」

「嘘…」

青治の絵が売れたのを喜ぶべきか、思い出の絵が人手に渡ってしまったことを嘆くべきかマヤには咄嗟に判断が着かない。

「すごい額だよ。有り得ない額だ」

小切手を見ながら青治が呟く。

「よかったじゃない。それだけ青治さんの絵を高く評価してくれたってことでしょ?」

マヤが明るく言う。やはり青治のために喜ぶべきだと思った。

「どうだろうな…ほら、見てごらん」

小切手を差し出す。マヤには正確な額はわからないが、何だかものすごい数の0が並んでいる。そして、買い取った人物の署名。

M. Hayami…。

「速水…さん?どうして…?」

流れるような筆跡を無意識に指でなぞりながら、マヤは掠れた声で呟いた。真澄が今日ここに来ていた…真澄がパリにいる…。身を翻してドアに向かって駆け出していた。行かなきゃ。今すぐ。

「リッツだ」

背後から声をかけた青治を一瞬振り返り、笑顔を見せると、マヤは一気に駆け出した。







マヤが行った。今までで最高の笑顔を見せて。
青治はゆっくりと立ち上がり、常夜灯を残して店内の照明を完全に落とすと、ドアに鍵をかけて画廊を後にした。
秋の終わりを告げる冷たい風が吹き、ゆっくりと夜が降り始めていた。見上げると、空に一番星が瞬いていた。
揺るがない、強く、確かな光。

「マヤを…よろしくお願いします」

はっきりした声できっぱりと言い切り、深く頭を下げると、男は呆然とする青治に小切手を押し付けて足早に去って行ったのだった。
青治が包んだ『追憶』を大切そうに小脇に抱えて。







リッツ…。
さすがのマヤも名前くらいは知っている。パリでも指折りの高級な老舗のホテルだ。
勢いでホテルの前まで来てしまったものの、中に入ることすら躊躇われる。
どうしよう…。
ひと目真澄に会いたかった。もう、結婚式に出席することから逃げ出した自分ではないのだ。ちゃんと真澄の幸せを願いながら、彼を愛し続けられることを確かめたかった。
ひと目でいい。とにかく会いたかった。
決心を固めて、階段を昇ろうと目を上げたときだった。エントランスが開き、恭しくドアマンに傅かれながら、着飾った長身の男女が階段の上に現れた。
真澄と紫織だった。
真澄は長身にタキシードをさらりと着こなしている。絹のマフラーが無造作に首にかかっていて、整った顔立ちに華やかな光を投げかけている。寒気を覚えるほど艶やかな姿だった。
マヤの視線は自然に隣の紫織も捉える。白く輝くデコルテが強調された、肩と胸が大きく開いた漆黒のイブニング。高い位置で髪をまとめ、ほっそりとした首にはダイヤモンドのチョーカーが煌めいている。
紫織はため息が出るほど美しかった。
剥き出しの肩に夜風が寒いのか、紫織が軽く身震いする。真澄がすぐに気づき、長い絹の手袋をした腕でショールを羽織ろうとする紫織からショールを取り上げると、そっと肩に羽織らせた。
愛情のこもった、夫らしい仕草だった。ふたりは、どこから見ても非の打ちどころのない、仲の良い上流のカップルだった。
紫織が真澄の腕に捉まり、ふたりはゆっくりと階段を降りてくる。映画のワンシーンのように絵になっていた。
影になっている位置に立ち尽くしたまま呆然と見つめるマヤに気づくことなく、ふたりは待たせてあったロールスロイスに乗り込むと、どこかへ消えた。







ここはどこだろう。
今は何時だろう。彷徨っているうちに、方向の感覚も時間の感覚もなくなっていた。
河沿いの道をひたすら歩く。
橋があれば渡る。
一瞬でも立ち止まったら、自分はきっと壊れてしまうと思った。だから、歩き続けた。
いつの間にか、静かに雨が降り出していたが、それでも立ち止まらなかった。好きな人の幸せを願うとか、愛されなくても愛するだけでいいとか、すべてきれい事に過ぎないと思った。とても無理だった。寄り添うふたりの姿を見た瞬間に、それまで積み重ねてきたことのすべて、この数週間、マヤが依存していたものたち、青治と一緒に過ごした穏やかな時間、整理したはずの気持ち、貫こうと決めていた片思い、小さな誇り、そんなマヤのささやかな砦があっけなく崩壊した。
仲睦まじいふたりの姿を見ながら、穏やかな心で真澄を愛するなんてことは自分には不可能だ。どんなに時間が経っても、どんなに一生懸命自分に言い聞かせても、無理なものは無理だ。
どうしたらいい?どうやって生きて行ったらいい?
真澄の側にいて、真澄と紫織を見ているのは身を斬られるように辛い。でも、自分は紅天女なのだ。一生、真澄と同じ世界に居続ける宿命なのだ。
女優を辞める?日本に帰るのを止める?
そうしたら真澄と二度と会わずに済む。
でも、女優でもなく、真澄と二度と会えない自分が生き続ける意味なんてあるだろうか。ああ、あたしにあるのは演劇への想いとあの人への想いだけ。あの夜、青治に語ったのと同じ結論。
この苦しみに耐える力をあたしにください。
どうか、あたしを守ってください。神様。

見上げた空は雨に閉ざされていて、星も月も見えなかった。







紫織はようやく眠ったようだった。彼女は、睡眠薬が手放せなくなっている。以前から時々飲んでいたようだが、真澄との見合いから婚約を経て結婚へと進むうちに、薬の量は加速的に増えていた。もともと強くはなかった神経を、さらに酷使するような生活を強いているのはもちろん自分だ。空の錠剤とグラスを静かに片付ける。

ホテルに帰ったのは夕方近くだった。紫織に黙って外出したことを詫びると、彼女は一気に崩れた。

「申し訳ありません?申し訳ありませんと仰いましたの、真澄さま?紫織は真澄さまに謝っていただきたいわけじゃないっ…あの方ね。違いまして?」

苦痛に身を捩るようにして言葉を搾り出す紫織を真澄は呆然と見つめた。

「紫織さん…」

なだめようと肩に伸ばした手から、紫織は怯えたように身を交わす。

「今まであの方と会っていたのでしょう?ずっと私に隠れて、会っていらっしゃったのでしょう?紫のバラを捨てて私を安心させて、キスまで交わして。船にもお電話がかかってきて。今日だって…」

「それは違う!紫織さん、聞いてください。今日、僕は…」

「聞きたくない!そんなお話、紫織は聞きたくありません!」

耳を覆ってベッドに突っ伏した彼女を見つめながら、真澄は痛感していた。この結婚は間違っていた。紫織にせがまれて、いくらかの同情とそれ以上の責任の意識から頷いてしまったが、誤りだった。自分はこの人を壊している。一緒にいても傷つけあうばかりだ。

「紫織さん…聞きたくないならかまいません。無視してください。マヤには一緒に暮らしている相手がいます。画家です。今日はその人と会っていました。これはその人が描いた絵です」

紫織は恐る恐る身を起こすと、真澄が包みを解いて、見やすい位置に立てかけた『追憶』を眺めた。

「本当ですの?あなたを信じてもよろしいの、真澄さま」

「ええ…もう、嘘はたくさんです」

真澄はひとつの決心を固めていた。







ホテルのバーには飽き飽きしていた。外は小雨が降っていたが、コートの襟を立てて、気にせず歩いていく。目に付いた酒場にふらりと入る。タキシードを着たままの、どう見てもパーティー帰りの真澄の姿は店内で浮いていたが、気に留める者はいない。
グラスがぶつかる音、方々のテーブルから上がる笑い声。喧騒を背に、黙って酒を呷る。毎晩、ひとりで飲んでいた。飲まないと紫織が待つ部屋に帰れなかった。
壊れつつあるのは彼女だけじゃない。俺も限界なのかもしれない。
今まで、どれだけマヤの存在に救われていたかを実感する。彼女に紫のバラを贈ることで誰よりも助けられていたのは自分だった。世界中を欺いても、ただひとつの真実を守っていたから、だから、生きてこられた。舞台で奇跡を起こす彼女を影から支えている歓びが力を与えてくれた。だが、もう、何もしてやれない。消えること以外には。

「この方に同じものを。僕はビール」

穏やかな声が背後で響き、隣の席に誰かが座った。虚ろな眼差しを向けると、青治がグラスを上げて微笑んでいた。

「君は…こんなところで何をしている?」

真澄の責めるような口調に小さく喉の奥で笑うと、青治はグラスを口に運ぶ。

「一杯おごらせてください」

小切手のことを思い出す。

「ああ…じゃあ、遠慮なくいただこう」

マヤと日々暮らしている相手とふたり、カウンターに並んで酒を飲んでいる。何て状況だ。とんだ茶番だ。おぞましくて、切なくて、何より滑稽だ。気づくと、真澄は声を上げて笑っていた。
青治は驚いた風もなく、真澄を気にするでもなく、静かに飲んでいた。沈黙が優しく積もっていった。

「君は、おかしな男だな。当たり前のように俺の隣に座って、ずっと黙って、ひとりで勝手に飲んでいる。なのに、俺は君を追い払うわけでもなければ、出て行くわけでもない」

青治が微笑む。

「僕を追い払いたいですか?」

「いや。そうしたいのは山々なはずなんだが。なぜだろうな」

苦笑いをする。この青年には余計なことまで話してしまいそうだった。どう考えても相手が違うはずなのに。

「それは、きっと、僕があなたにとって、旅先で会った行きずりの他人にすぎないからでしょう」

落ち着いた口調で青治が言う。この青年の掴み所のない不思議な軽やかさ、虚ろな明るさは何だろう。不意に昼間覗き込んだ瞳を思い出す。何でも受け入れる、底なしの井戸のような深い深い瞳。

「他人か。たいていの人間にとって、他のたいていの人間は他人だな」

そうだ、俺にとっても。ただひとりを除いて。

「ええ、その通りです。毎日旅をしているようなものです。たくさんの人と日々会うけれど、すぐにすれ違う。もう二度と会うことはない」

この男は何の話をしているんだ?何が言いたいんだ?

散文的な独白をぼんやりと聞きながら、真澄は心地よい浮遊感を感じていた。少し酔いが回ってきたようだった。

「…人が旅人に胸の内を語るのはなぜだと思いますか?他人だから、出会ったときから既に思い出だからですよ。僕は、彼女の思い出です」

僕は彼女の思い出です。真澄ははっとしたように身を起こした。

「何が言いたい?」

「彼女は必ず帰りますよ…」

あなたのもとへ、と付け足す声が聞こえたような気がした。

「なぜわかる?」

青治は黙って微笑んだだけだった。

「さて、僕はそろそろ失礼します。これはあなたにお返しします」

小切手をカウンターに置く。

「どういうつもりだ?これは…」

慌てて言葉を連ねようとする真澄を抑えるように青治が静かに首を振る。

「あの絵は、あなたから彼女に返してください。彼女のものですから」

呆然と見つめる真澄に軽く会釈する。

「お話ができてよかったですよ、紫のバラの人」







店を出ると、雨は上がっていた。薄く広がる雲の間から、淡い光を放つ、薄い白い月が見える。
少し歩こうと思った。青治から返された小切手がコートのポケットの中でかさりと音を立てる。
変な男だ。マヤを愛しているわけではないのかもしれない。少なくとも、彼女を独占したい、自分のことだけを見ていてほしいと思っている真澄のような愛し方ではないのは確かだ。真澄との経緯はすべて知っているようだった。
それでいて、自分にマヤと会うことを勧めるようなことを言う。真澄はため息を吐いた。考え事をする気分ではなかった。

いつしか、セーヌ河沿いを歩いていた。橋がかかっている。その中央辺りに小さな人影が見える。欄干に寄りかかって、河を見つめているようだった。

真澄の足が止まる。



マヤだった。






7.16.2003



…to be continued












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