ツキノヒカリ 1
written by miko
「社長、お先に失礼させていただきます。」
いつもの水城くんの凛とした声が聞こえる。
「ああ、お疲れ様。」
仕事の手を休めず、俺は声だけを返す。
「まだ、お仕事を続けられるのですか?そろそろ帰られたほうが…。」
心配そうな声だ。
「…そうだな。この書類だけ片付けたら帰ることにするよ。」
「そうしてくださいまし。…来月には結婚式を控えてらっしゃるんですから。」
少し暗めのトーンの声。彼女が何か含みを持っているときには必ずこの高さで響いてくる。
俺が黙っていると、水城君は「それでは、失礼します。」とドアを閉め、退室していった。

誰もいなくなった社長室。仕事の手を休めてタバコに手を伸ばす。
火を点け、窓の外へ目を移す。窓の外はまばゆいイルミネーションであふれ返っている。

都会の銀河は天気など関係ない。
雨だろうが、曇りだろうが、いつでも光り輝いている。
…表も裏もない。何に影響されることもない。いつも同じ風景だ。

ふと、視線を夜空に向けてみる。
俺の目に、大きな、満月が映った。

そういえば、あの子と最後に歩いた日もこんな満月だった。


あの日は、紅天女の上演権についての最後の打ち合わせだった。
全ての話が終わり、彼女が帰る時間になった。
もう、追いかけてはいけない。
自分は彼女以外の女と生きていかなくてはならないのだから。
そう自分に言い聞かせても、思いは溢れ出してくる。

「じゃあ、これで失礼します。これからもよろしくお願いします。」
来客用のソファーから立ち上がり、ぺこり、と彼女が頭を下げる。
これからも…。そう、彼女は大都芸能の所属になったのだ。
これからは「社長」と「女優」。俺たちはそんな呼び方で呼ばれるつながりしかない。

「ああ、大都芸能の看板女優として、よろしく頼むよ。」
いつものような軽口が出てこない。何をどう言っていいのかわからない。
それだけ言って黙っていると、彼女が口を開いた。
「じゃあ、あたしそろそろ帰ります。」
ああ、と言いかけたところで、水城君がドアを開ける。
「失礼します。社長、企画部長が取引先との交渉がまだ終わらないと連絡をしてまいりました。この後の会議ですが、明日に延期ということになっております。今日はこれで全てのお仕事が終了いたしましたが。」
…彼女なりの気の遣い方だろう。俺の彼女への思いを知っているのは、彼女と、聖しかいないのだから。
「じゃあ、俺も帰るとするか。チビちゃん、送って行こう。」

車の中ではほとんどしゃべらなかった。
何かを口に出すと、全てが壊れてしまいそうで。
彼女は時折、こちらをちらと見ていたが、俯いたまま、ぎゅっと手を握り締めていた。
ふと、彼女が顔を上げる。見上げた視線の先には、大きな満月が出ていた。

彼女のアパートの前に着く。
「じゃあ、チビちゃん、また。」
と声を掛けると、急に彼女が何か言いたげな瞳でこちらを見つめている。
「どうした?」
ここで別れなければいけないのに、思わず口が動く。
彼女は俺にこう告げた。
「速水さん、月を一緒に見てくれませんか?」


二人で並んで歩いた。何ヶ月ぶりだろう。
言葉を交わすわけでもなく、ただ黙々と歩く。
柔らかな月明かりに照らされ、細長く俺の影が伸びる。
その影に隠れるように、彼女は俺のあとをついてくる。

彼女の家の近くの公園についた。
立ち止まった俺を追い抜いて、彼女はブランコに座る。
ギィ…、ギィ…と音を立てながらそれを揺らしながら視線は空へと向けられている。

「速水さん、満月って好きですか?」
急に彼女がブランコを揺らしながら俺に尋ねる。
「そうだな…。満ち足りているっていうところは好きかもしれないな。空の主役って感じがして。」
「あたしは、あまり好きじゃない。」
少し意外な感じがした。あれだけ大きくて光り輝いている月…。
彼女なら「好き」と言いそうだと思った。不思議だった。
「なぜ。」
「…だって、満月って一番最高に輝いている状態で、あとは欠けていくだけでしょう?一番いいところにいたら、あとは落ちていくだけじゃないですか。…だからあたしは満月より三日月が好き。」
俺は彼女から目が離せなかった。
その顔はどこか寂しげで、それでいて憂いを秘めている。
伏せた目、その睫毛が美しい。どこか諦めた表情だ。
いつからこんな顔をするようになったんだ…。こんな憂いを含んだ顔を。

いつのまにかブランコは止まっていた。
「三日月は、今から満月になる月でしょう?だから、月が今からこんな風にキレイになるんだぞって思っている感じがするの。きっとワクワクしているんだと思う。だから、好き。」
また視線を上げ、月を見つめる。

月の光が彼女を照らし出す。
その淡い、儚い光の中に彼女も溶けて消えてしまいそうな気がした。
そっと彼女に近寄る。消えてしまわないように。
その存在が確かなものか、触れてみる。その頬に。
柔らかな光の中に浮かぶ彼女の瞳には月が映る。そして、その月は次第に形を崩していく。
瞬間、ぽろりと涙がこぼれる。

ふとその唇に顔を寄せる。
彼女が静かに目を閉じる。流れる涙はそのままにして。

あまりにも美しくて、あまりにも愛しくて、そっと、そっと口付ける。
天使の羽に口付けるように。

彼女は別れ際、月を見上げて俺にこう言った。
「満月って、望月とも言うんですね。望みが叶った月。でも、叶ったらすぐに小さくなっていくの。」
「君の望みは…。」
ふと、聞いてみたくなった。
「あたしの望みは…もう叶わないから。満月になることもなく、しぼんでしまったの。」
彼女は視線を自分の膝元に落とす。
それは…?一体なんだ?思うまま問いただしたかった。
「あたしの一番欲しかったものは、もう手に入らないの。ううん、欲しいと思ってもいけないものなの。」
マヤ、君は…。
彼女は視線をすっと上げると、涙に濡れた瞳で俺を見つめる。
「あたしの足長おじさん。あたしはもう大丈夫。他の人のものになるあなたに、これ以上甘えているわけにはいかない。」
俺の中に電撃が走る。彼女は静かに微笑んでいる。涙を流しながら。
俺は何も言えずに凍りついた表情で彼女を見つめていた。
「今までありがとうございました。…でも、もう、紫のバラは、いりませんから。」
そう言うと、俺に背を向けた。
「さようなら、速水さん。お幸せに。」小さく、肩が震えている。
アパートの中に入っていく彼女の姿が、やけに小さく見えた。


…あれからもう半年以上が経つ。
彼女には会っていない。パーティや、舞台の視察で姿を見かけるだけだ。
会うべきではない。…それでも会いたい思いは募る。
自分がこんなに未練がましい奴だとは思っていなかった。苦笑いが頬に浮かぶ。

あの時、手にした彼女の頬のぬくもり、触れた唇の温かさ、そして、柔らかさ。
何もかも夢だったのかもしれない…でも、今でもこの体に残っている。

残っているものと言えば…最後の言葉だ。
彼女は知ってたのだ。俺が「紫のバラの人」であることを。
彼女と俺をつなぐ糸を切ったのは、他でもない、彼女だったのだ。
自分の馬鹿さ加減に腹が立つ。
どうして、気付いてやれなかったのか。何か言いたげなあの瞳に。
俺に何かを訴えていた、あの切ない表情に…。

もう、遅い。
すべてが遅いのだ。
これは彼女の気持ちに気付かなかった罰だ。
来月、俺は愛してもいない女と結婚する。
彼女への思いを胸に抱えて、その思いを入れた箱に重たい鎖をかけて…。


…満月は、嫌い。あとは欠けていくだけだから。

同じだ。俺も。俺の望みも叶うことなくしぼんでいくだけだ。
口にくわえていたタバコを灰皿にぎゅっと押し付け、俺は仕事を片付けて帰宅の途についた。






2月の東京は寒い。
木枯らしが吹く。首元を掠めていく。
誰もが首を竦め、コートの襟を立てる。
道行く人には誰も目を向けず、ただ縮こまって、下を向いて歩いていく。
マフラーが欲しい、そう切に願わずにいられない。
一人で歩くには少し寂しい―――――――― そんな季節。

梅の季節限定で紅天女が上演されることが決まったのは去年の10月。
マヤが試演を経て上演権を得てから数ヵ月後のことだ。
それからは上演に向けてのスケジュール調整、12月からは本格的な上演に向けての稽古が始まった。
そして来週、いよいよ紅天女の本公演が始まる。
女優、北島マヤの力量が試されるときがきたのだ。
試演のときの苦しみを乗り越えて、マヤはまた女優として一回り大きくなっていた。
以前のように悩み、苦しむことが皆無になったわけではない。
それを芝居の糧にできるようになった…それだけのことである。

マヤは上演権を得てから所属を大都芸能に決めていた。
様々な角度からいろんな人に相談をした。
「誰が一番この作品の価値をわかり、そして守っていってくれるか。」
それを冷静に考えたとき、速水真澄という人物しか浮かばなかったのだ。
あの人なら、私をずっと影で支えてくれていた速水さんなら、月影先生の遺志を尊重してくれる。
そう思ったら決断は早かった。
マヤは大都芸能とマネジメント契約を結び、上演権の管理を委託したのだ。
…自分の苦しい胸のうちを心の一番奥に隠して。
マヤは真澄には会わない。
社の一介の女優である自分が社長にわざわざ会いに行く必要はない。
マネージャーを通してすべてのスケジュールは入ってくる。
紅天女に関する大切な話は全て水城が連絡をつけてくれる。
真澄に会わなければ女優の仕事ができないわけではない。
芝居さえ、できればいい。そうマヤは思っていた。
いや、思い込もうとしていた。

それでも彼女の思い人は美しい婚約者と様々な場所に現れる。
例えば彼女の映画の完成披露パーティであったり、彼女の舞台の打ち上げパーティーであったりする。…仕方ないことではある。彼は所属事務所の社長なのだから。
紅天女の本公演が終わったら結婚するらしい。それは以前から聞かされていた。
会えば挨拶もする。
でも、できるだけ、顔は見ない。
見たら、決意が鈍ってしまう。
もう昔みたいに「速水さん」なんて呼べない。きちんとした言葉づかいで、きちんとした振る舞いをしないといけない。
だって、彼はもう他人のものになってしまうのだから。
私は、大都芸能の所属タレントであって、商品でしかない。
商品が対等な口をきいてはけない。
それは、私の、決意。あの人をあきらめるための。

…今日のパーティーにはあの人は現れなかった。
紅天女に関わるパーティーには全て出席していたのに。どうしたのだろう。
ふと、自分の思考の矛盾に気付き、マヤは自分が可笑しくなる。
諦める、諦めると言っているのに、いつの間にかあの人を探している自分がいる。
いつになったらこの苦しみから逃れられるのだろう、と考えるが、
結局は自分で逃れることを放棄してしまっているではないか。
マヤは近くのボーイからシャンパングラスを受け取り、近くのテラスへと出る。
ことのほか、今日は月が美しい。

あの日も満月は美しかった。
あの人と一緒に、最後に歩いた夜。
でも、あたしは満月は嫌いだ。
今が最高であとは欠けていくだけ。
満ちることのない、あたしの思いはどこにいけばいい?

引導を渡したのはあたし自身。
「紫のバラの人」から解放してあげなければいけなかった。
だから、離れることを決めた。でも。

あの時触れた唇の感触。今でもはっきり覚えている。
あの人の吸い込まれるような瞳。そっと頬に触れた手の温かさ、重なった唇の柔らかさ。
半年経った今でも、決して忘れることはできない…多分一生。

くい、とマヤはシャンペンを飲み干す。
味なんかわからない。わからなくていい。
ただ、無性に悲しかった。
あの人を諦めきれない自分が嫌いだった。

会場に戻りながら、ふわり、と振り返り、月を見やる。
今日も月は満ちている。
でも、あたしの心は欠けたまま、一生満たされることはない…。



2003.08.11



…to be continued










top / home/ next